祖父母

 いまは亡き祖父母は、かつて意地悪だったことがなかった。二人とも、ただ新聞を読み、草花の名を覚えているきりの、なんら教養を備えていない、一点知力の汚点(しみ)もない完全な白紙だった。彼らは、現在の私のようにその白紙に近づきたいがために、あえて自分の眼に闇を着せて哲学としての無知と淳朴をわが身に強いるような物好きではなく、完全な白紙だった。
 孫である私は彼らに無性にかわいがられた。自分の子供を愛さない親は世にないでもないが、自分の孫を大事にしない祖父母は世に決してない。老人というものは、若者が太陽を必要とするように、愛情を必要とする。出稼ぎに出ている長女から預けられた孫は、彼らの孤独に満ちた善意の生活における慰謝だったはずである。
 彼らはよく互いに罵り合ったが、年ごとに角が取れてきて、時とともに温和になっていった。彼らの内には言い知れない哀愁がこもっていて、自らもその理由を知らなかった。彼らの静かな様子には、まだ始まらないうちにすでに終わってしまった生涯が持つ茫然自失の趣があった。私はそれに惹きつけられた。
 意地悪でないというのはひとつの相対的な善良さであり、弱さである。善良な者同士憎み合ったり和解し合ったりするための寄る辺がなければ、生きていけるものではない。二人の弱い者が世間に善意を期待せず、子供たちにすらそれを期待せず、互いに寄りかかって暮らしているさまは、常に私の心を打った。彼らは、孫である私にも、生存以外の何ものも期待しなかった。
 私は彼らを涙なしで思い出すことはできない。