書物――私はそのときまで孤独で、思春期の習慣からモノローグと脇ぜりふとに傾いていたので、紙の上を飛び回る活字にいささか辟易した。あまりにも自由な情緒の入り乱れた騒ぎを見て、私の頭は旋風のように渦巻いた。ときには、印刷されている感情が目くるめく混乱してしまい、遠く逃げ去ってふたたび取り戻せないように思われた。哲学、文学、美術、歴史、宗教、すべてが思い設けない言葉と方法で語られるのを私は聞いた。私は不思議な境地を瞥見した。そして幼い視点でしかそれを見られなかったので、なんだか混沌界を見るような心地だった。いままですべてのものを見ていた角度がぐらつきはじめた。地震にも似た革新が私の頭脳の全世界を揺すった。不可思議な感性の動乱だった。私はそれにほとんど苦しみを覚えた。
 ……以来、私は、事実よりも理想を好み、英雄よりも詩人を好み、事件よりも書物をいっそう賛美するようになった。人はその思想するものよりも、夢想するものによっていっそう確実に判断される。思想の中には意志があるが、夢想のうちにはそれがない。まったく自発的である夢想は、魂の形をとりそれを保全する。燦然とした宿命のほうへ向けられる無意志で限度のない憧憬ほど、人の魂の底から直接にまた誠実に出てくるものはない。こしらえ上げ、推理し、組み合わせた思想の中よりも、そういう憧憬の中にこそ、人間の真の性格は見出される。夢想こそ、最もよくその人に似ている。

 社会の契約、人民の権利、民主主義、文明、進歩、などというすべての信条は、私にとってほとんど何の意味もなさなかった。私はあらゆる政治・学術上の信条にまったく無関心で、そんなことはどうでもかまわなかった。そういう知力の乾涸びた潰瘍は、私の精神の中に完全な観念を一つも残さなかった。その潰瘍は、私の考えでは、科学やイデオロギーを自慢するくちばしの黄色い衒学者の胃袋に巣食うものだった。
 世界には眺めるに値するあらゆる種類の草や花や木があり、ひも解くに足る多くの書物があるのに、憲法だの民主だの進歩だのという児戯に類することについて、人びとが互いに喧々囂々と論じ合うということを私は理解できなかった。
 私は、そういったもろもろの信条を嗤う冷淡さに相反する愛を持っていた。私のエスプリはそれらの知力なくしてもすますことができたが、私の心は愛と友情なくしてはすますことができなかった。それは自分では解明できない深い矛盾だった。なぜなら、愛は熱き信条だったから。

 3月11日水曜日、午後1時から、大隈講堂前で恒例の合格記念撮影が行われた。やってきた講師は小貝さんと私、写真係は本部の清水さん、進行役は同じく河野さん。今年は大隈候前では撮影しなかった。意図的なものではなく、忘れてしまったのだ。30人近い学生が、輝かしい王冠を戴く大隈講堂を背に、思い思いのポーズでめでたい写真を撮っていく。まず個人で、それから校舎グループで、あるいは意中の講師と並んで、最後に全校舎集合でと。常に大隈講堂が背景になった。風のない曇空だが、写真は明るく写るだろう。
 政治経済学部に進む渡辺裕樹・出口廣元・中村駿・平原結・伊藤健人・早川竜太郎、商学部に進む玉井俊哉・棚町真也・兼俊睦・高野誠二・安崎純、教育学部に進む高野祐真・五龍神田将太・久保彰暢・千葉太一・伊藤深雪・大野優衣、社会科学部に進む藤村昌代・蒲原沙織・阿部一葉・新為喜詠・白土千敬、文化構想学部に進む八谷絵美理……その他にも文学部やスポ科に進む学生たちもいたが、手帳に記しそこねた。撮影に参加しない合格生も含めると、たぶんこの二倍の人数に膨れ上がるだろう。みんな一人の例外もなく、懸命に勉強した学生たちだ。ほんとうにきみたちはよくやった! 彼らに並んで「さあ、作り笑い!」などとおどけながら、私は感無量の思いでいる。無論、作り笑いなどしない。
 記念撮影を終えた後は、これまた恒例の『ぷらんたん』での懇話会となった。早稲田を目指したけれども、残念ながら敗れて横浜国大に進学することになった齋藤良信くん(敗れて横国というのもたいしたものなので、私が是非参加するように呼んでいた)を皮切りに、初々しいスピーチが始まった。あまりにも恥ずかしがりの子供たちが、15秒ほどの自己紹介で次々にバトンを渡していく。あっけない。彼らは目立とうとしないのだ。講師や職員が黒子に徹しようとしても、彼らが黒子になろうとする。したがって小貝さんや私や清水さんが長いスピーチをすることになった。トップエリートの将来をほぼ約束された彼らは、OBの話を神妙な顔をして聴いている。おそらく現代子の彼らには参考にならない話だ。しかし胸の底から湧き上がってくる喜びが、そのレトロ性を好意的に押し包んでしまうようだ。
 私は言葉の貴重さについて話をしたが、それは言葉が明るい思考を運んでくると常々考えているからだった。言葉を失うと、未来がひどく暗いものに思われ、そこに知性の眼差しを向けるのが恐ろしくなり、頭の活動をやめてしまい、未来なんかありはしないし過去だってありはしなかったんだと自分に信じこませようと努める時間が多くなる。ものごとを思考で判断しようとせずに、生活の唯一のバネとして気分と本能だけが残るような、そんな時間、ほとんど放心状態に近い一時的な思考の欠如に支配されて、絶望のいちばん端に立って、もしこのホームから飛びこんだらどうなるだろうと考えてみたり、あるいはまた、社会全体が卑屈なほど尊敬しているようなある偉い人物を眺めながら、あいつを刺し殺したらどうなるだろうと考えたりすることに、一種の快感を見出すのだ。挫折に満たされた青春の日々に、できるだけたくさんの言葉を蓄え、常に知的に思考していさえすれば、そういう危険は回避できる。
 私はそんなことを心の底で願って話をしながら、もう一方では、今年不運にも挫折した学生たちの顔を一人一人思い浮かべ、新年度も彼らを教えることができるかどうかを危惧していた。他の予備校に頼ったり独学に沈淪したりせずに、もう一度早予にやってきてくれるだろうか、そして来年こそこの席で抱負を述べる側になってくれるだろうか、と危惧していた。たぶん彼らは早予に戻ってくるだろう。なぜなら、それが早予の奇妙な伝統だから。戻ってきさえすれば、彼らは少なくとも私の真剣な言葉に包まれる。そのために私はいつも言葉を蓄えている。
この記念撮影会が始まってからかなり経つ。個人情報保護全盛の時代、最初のころは撮影そのものに生徒がきてくれるかどうかオッカナビックリの面もあったが、年ごとに参加者も増え、ついに恒例として定着した。そしていつのまにか、ひたすらこの日の自分の晴れ姿を予備校の新年度生徒募集パンフレットに載せたいという願いから、一年間懸命に勉強する学生が増えはじめた。もちろんそのことが信じがたいほどの合格率に結びつくようになった(そのことばかりが原因ではないことはよく承知している。まるでスポーツのように猛勉を強いる早稲田予備校で、彼ら自身が日々励んできた知識の蓄積が最たる原因だろう)。昨年度は早大受験者中88%が合格して、早大高等学院を抜き全国一位となり、われわれ当事者たちを驚かせた。おそらくこの事実は予備校側幹部しか知らないことだろうし、母体が小さいことから他の教育集団も注目していない。この隠れたエリート予備校は過剰宣伝を打たないので、学生本人も父兄も(講師スタッフのほとんども)たぶん知らないし、知ればびっくりするだろう。私はよほどメッセンジャーになって、早予のことを褒め上げたいのだが、マイナーという殻に閉じこもって主要な講師連も事務側も喧伝したがらないので止めておく。勝ち犬なのに、無名のゆえに遠吠えをしているように見られる悲しい図だ。自慢すれば揶揄され、冷笑される。しかしそんなことはどうでもいい。それこそ私たちの隠れたプライドだからだ。 
 いずれにせよ、単なる募集パンフ作成の基礎的試みが、学生たちの向学心に意外な好影響を与えたことになる。それを知ってますます、予備校側の撮影にも力が入るようになった。今年も同じ感慨が胸をよぎる。―あと何年、この喜びの日を迎えることができるだろう。あと何年、学生たちの笑顔を目に焼き付ける幸運に出会えるだろう。やくざな仕事と思って踏み込んだ臨時バイトが、二十年の腐れ縁になり、生き甲斐をもたらす天職となった。もう死ぬまで、足抜きはできない。そしてだれに諌められようとも、足を抜くつもりもない。

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     ・・・・・・・・・・
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