私は、九州は熊本のある町に生まれたのだが、その町の記憶は一つも残っていない。父と別れた母がいろいろな職に従事して、諸処転々としたからである。私に故郷とする場所はない。見方を明るくすれば、日本の処々方々が私の故郷とも言える。菜の花が一面に咲いて陽炎の立つ畑だとか、雪の降り積もる岡は真っ白なのに海はますます蒼くなる冬景色だとか、都会の一隅のドブ臭い路地の夕暮れだとか、それらのものが同時に私の中でたがいに入り混じっているというわけだ。私はいつでも、これら任意の風景を思い出すことができる。

 私は人生について、芸術について、猛烈な読書をしたが、自分の読んでいることが恐ろしいたわごとだという考えはけっして頭に浮かばなかった。そんな考えが浮かばなかったのは、私の読むたわごとが、知的な、愛すべきたわごとだったからだ。若い魂は知性を尊重し、愛を信じた。すべての精神力が未来に向けられ、しかもその未来が過去の経験にではなく、想像しうる幸福の可能性にもとづく希望に影響されてきわめて多種多様な生き生きとした魅惑的な形をとったため、未来の幸福を夢見ただけで、私は真に幸福な人となった。
 形而上的な読書を私が好んだ理由は、さまざまな考えがどんどん速さを増して次から次へと湧き起こり、ますます抽象的なものになっていって、ついにはそれらを表現する可能性もわからなくなるほど空漠としたものになって、考えていることがまったく別のものにまとまってしまう、そんな瞬間が愉快だったからだ。思考の領域でますます高く上昇していくうちに、突然その果てしなさを悟り、それ以上先へは進めないことを意識する、そんな瞬間が好きだったからだ。

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   『すべてのことは人をうみ疲れさせる
   人はこれを言いつくすことができない』

1  笑い疲れているが、あしたも笑うであろうということ。
     ・・・・・・・・・・
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―竹内銃一郎(劇作家)―

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