2010・年頭言(正月講義にて)

 ジャーナリストたちが、学者たちが、ときには芸術家たちまでが、政治に対して抗議の言説や文書を突きつけるのを見かけます。内外の世界が混沌としているいま、机上で作成したそんな言葉が、その混沌を沈静する何らかの効果があるとでもいうかのように。芸術家や学者が、たとえきわめて優れた有名な人であるにせよ、政治のことに関して何か言うべきことを持ってでもいるかのように。
 それはおそらく最悪のことです。もし自分が政治の現場に立って、日々身命を賭けているような人間ならば、憤激し、そのときどきに怒り、憎む十分な権利を持てばよいのです。しかし、机に棲み家を定めている人の場合は、政治を書斎に持ちこみ、人びとの間に憎悪を培い、それを激しく掻き立てるような言説を弄する愚行はやめるべきです。悪いものをいっそう悪くし、醜いことや悲しむべきことを増大させるのが、彼らの任務であるはずがありません。それらすべての発言は、思考の欠陥に、心の安易さに基づいています。
 思慮の浅いジャーナリストや学者や芸術家にとっては、人間の精神界に存在しない価値の薄い抽象的なもののほうが、精神界に存在して価値の濃いものよりも、言葉で表現するのに容易であり、表現の責任も伴わないかもしれませんが、人間の精神に対して謙虚で良心的なジャーナリストや学者や芸術家にとっては、まさにその反対なのです。
 すなわち、あらゆる人事・精神現象の物理的存在は証明することができませんし、言葉に定着して真実めかせることは困難ですけれども、謙虚で良心的な彼らがそれを厳かな存在物として取り扱うことで、生き生きとした普遍的な精神の衣装に織り上げることができるのです。そういう衣装ほど言葉で織り上げにくいものはありませんけれども、また、そういう衣装ほど言葉の繊維を密にして人びとに精神の暖をとらせる必要のあるものもないのです。それは人間文化の超国民的な衣装だからです。内外のポリティックスに対する喜びより、人間に対する喜びを慈しむ衣装だからです。机から去らないことを彼らが決意したとき、彼らは世界に属したのです。
 自分の内奥の生命力を信じない者や、その生命力を欠いている者は、金力や権力といった、文明社会の中で過大評価され、千倍にも見積もられてきた代用物で補充しなければなりません。自己の内面的な法則を強い意志の力で身にまとう人びとのあいだでは、世界は文明の進歩と無関係にもっと豊かに高く栄えます。そういう人びとの世界では、時代時代の政治家を煩わせるような諸問題は(そのほとんどが他人の持ち物を欲しがることからもたらされる問題ですが)もはや問題ではありません。彼らが心を用いるのは、もっとほかのことに対してです。どの時代にも共通の、草の茎のような深く絶妙な自己成長、すなわち文明の利益を貪るのとはちがった利己主義です。それがもとになって多くの人びとが悩まし合い、殺し合うような、不満を言いながらの文明への適応といったものは、彼らにとってほとんど価値がありません。
 彼らはたった一つのものだけを尊重します。彼らに生きよと命じ、彼らの普遍的な成長を助ける、人間固有の神秘的な力です。この、時代人である前に、普遍的な生命の連続体であることを喜ぶ力は、文明の流行に順応しようとする批判者によっては、獲得されることも、強められることも、深められることもなく、人間であることを素朴な喜びの中で享受する謙虚で良心的な知恵の人によってのみ可能なのです。
1