たとえ物質生活に不満はあっても、みずからの心に満足しきった幸せな人が世間にあふれている。それはなんという圧倒的な勢力だろう! 不遜と無為、無知と低劣な向上欲、どちらを見ても、信じられないほどの退化現象、偽善、嘘、そればかりだ。にもかかわらず、どの村にも、町にも、都会にも、心的な静けさと平和がみなぎっている。心の貧困に声を涸らして憤激し、叫ぼうとするような者は一人もいない。目に映るのは、儲け、交換し、物を求めてスーパーやコンビニへ出かけ、夜は明日の生活のために眠り、昼は生活上のくだらないことをしゃべり、いっとき物欲を忘れて性欲のはけ口を漁り、ひたすら年をとり、身内の死者をおとなしく墓へ運んでいく人たちばかりだ。
 心の貧しさに悩んでいる人びとの姿は目に入らず、耳にも聞こえない。きっと本質的に恐ろしいことは、どこかの舞台裏で行なってくれということだろう。すべてが静かで、平和だ。形ばかりに抗議するのは、役立たずの統計だけである。『何十万、何百万人の人びとが飢え、病死し、リストラされ、破産し、精神を病み、自殺した』という統計が―。ほんとうの不幸とはそんな表だって明文化されたものであるはずがない。それは心の満足を幸福と見なす人びとを襲う、不慮の事故に過ぎない。本物の不幸は、人の頭蓋の中で吹き荒れるものだ。
 しかし、そういう明文化された秩序もたぶん必要なのかもしれない。明らかに、心的に幸せな人びとがいい気分でいられるのは、心的に幸せでない人びとが自分の重荷を勝手に黙々と背負ってくれているからだし、その沈黙なしに心の幸せなどありえないにちがいないからだ。
 満足しきっている幸福な人間一人ひとりの門口に、だれかが木鐸を手にして立ち、この世に心の堕落があることや、どんなにあなたの心が幸福であろうと、いずれ人生があなたの心にも爪を立てて、不慮の病気や貧困や喪失とは異なった、《心の災厄》が降りかかり、心的幸福からの完全に見放されるときが訪れるのだということを、たえず木鐸を叩いて思い起こさせてやることが必要だろう。しかし、どこにも木鐸を持った物好きな人間などほとんどいないために、相変わらず心的に幸せな人びとはのんびりと暮らし、道ばたのごくささやかな物質生活上の悩みが、風が葉を揺する程度に、少しだけ残った《生理》という名の心を波立たせるくらいのところなのだ。

 人が嘘をつくのをそのまま聴いたり、眺めたりしていると、その嘘を我慢しているというので、バカ呼ばわりされる。侮辱や屈辱に加え、自分が誠実で自由な人たちの味方であることを公然と宣言するのをはばかり、自分まで嘘をついて薄笑いを浮かべる。……それもこれも、すべてはメシのためであり、暖かい家庭のためであり、一文の値打ちもない肩書きか何かのためだ。

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   人はこれを言いつくすことができない』

1  笑い疲れているが、あしたも笑うであろうということ。
     ・・・・・・・・・・
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