JUGEMテーマ:読書
 

 この世には弱者も強者もない。

強者が弱者の生きるのを妨げることは自然の法則でもあるのだが、そのことが納得できて、容易に理解しうるのは、教科書や理論書の中だけであって、日常生活という形をとって現れるこの混沌状態や、人間関係を織りなしているいっさいの細部のもつれの中にあっては、強者も弱者も同じように、生活の外部に存在している人間には無縁な、何か未知の指導的な力に否応なく屈し、お互いの関係の犠牲になって倒れていく以上、弱肉強食はもはや法則ではなく、論理のオナニーとでも呼べるものだろう。

 日々学術的な論説にうつつを抜かしているきみへ。
 この世が厳密な証明ずみの学説からだけ成立すると信ずるのは誤りである。そのような思いこみは不当なのだ。その思いこみは、ただ権威好きの気持ちを強めるために、きみの宗教ともいえる理論を、学術の名を借りたほかの理論で置き換えようとしているだけのことだ。その置き換えた理論とても、その中には必然的な命題はほんのわずかしか含まれていない。それ以外は、ある程度まで蓋然性を持った主張にすぎない。確実性に近づくことで満足し、究極の保証はないにしても、示唆的な仕事をつづけうることこそ、人間らしい思考方法を示すものなのだ。

 私がずっと要領を得ないまま生きてきた道は、いっさい自分を主張しないそれだった。私は外貌や態度からは想像もつかないほど頑なに、そのあたりを守って生きてきた。胸の中の深いところで自分が一段劣った人間であると決めてしまったようなところがあり、わたしはそんな自分に漠然と幸福さえ感じてきた。周囲の人たちも、一人前の男が深く何かを決意してしまったようなことを翻意させる手立てが見つからず、当たらず触らず、ただ眺めているきりだった。
 結局、自分はこういうふうに日を送ろうと思って、こうやって生きてきたのだった。それならばしっかりと腹を据え、黙って日を過ごすしかない。片時も目を離さず、自分を見守っていくほかはない。そうこうしているうちに私は、友人や親族や知人との日常の交差路を迂回するようになっていった。小、中、高、大と、世間並にひととおりなぞり終えてから、淡々と働き、机に向かい、趣味にふけりながら、指折り数えて三十年以上が経った。その過程で、風の噂に、むかし親しく知った人びとの曲折や死を聞いたり、結婚や発展を耳にしたりした。何の感慨もなかった。私は彼らのように人生の浮沈を楽しむ優れた人間ではない。
 心残りがある。『牛巻坂』に書いた寺田康男―私の惚れたたった一人の男に、四十五年の余りも逢っていないことだ。寺田康男は、十五歳のときに私の人生の方向を決め、それ以降の私のなかば諦観じみた無欲の精神の原形質を形作った男だ。いわば、私を人間らしい無頼の徒にしてくれた男だ。十五歳で人生を終えた私の小説の大半は、彼に捧げられているといっても過言ではない。私の精神は十五歳から少しも昇っていないので、彼は私のよき読者となってくれるだろう。そう信じているからだ。
 寺田康男に関しては、風の噂さえない。むろん、一再ならず、彼に逢うための努力はした。しかし、逢えなかった。彼が私の死の床にいてくれれば、あるいは、彼の死の床に私が巡り合わすことができれば、私の人生は大団円に完結すると言っていい。寺田康男に逢いたい! だれか彼を探し当ててくれないだろうか。
 彼は昭和三十七年に名古屋市立千年(ちとせ)小学校を卒業し、私とともに昭和三十九年九月(あるいは十月)に名古屋市立宮(みや)中学校を除籍され、そしてその後の消息をくらましてしまった。中二のときの大火傷のせいで(切断を危ぶまれたほどの)、かなり目立って脚を引きずっているはずだ。そして彼は、典型的な無頼の人物だったので、かなりの確率で、その筋のしのぎに就いている(あるいは就いていた)と思われる。
 むなしい結果を予想しながら、私は数年に一度、彼の消息を求めて、名古屋へ旅をする。どんな形でも、寺田康男の消息に触れたいからだ。極言すれば、彼の死亡の確認でさえ、私には朗報なのである。

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     ・・・・・・・・・・
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