『雨上がりの土方』

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  松坂屋で『雨上がりの土方』が展示されているあいだ、佐藤すみは、昼の仕事を中働きのカズちゃんにまかせ、息子の絵を見にいった。そして、一つ一つほかの子の作品を眺めながら、息子の絵を目指して階段を昇っていった。世間の評価を気にしすぎたせいで、世間にいちばん近いところへ連れていってくれるはずのスカウトを、ものの弾みで撃退してしまうような、ああいう取り返しのつかない失敗をしてしまったけれど、それでも彼女は自分なりに息子を愛していた。無闇にかわいがらないだけのことだった。
 ―かわいがりすぎず、厳しくするのは、せめてもの親心。
 要するに彼女は、才能によって別の世界へ切り開かれていく大きな夢と、厳しさとは関係のない天然の開花があることを理解できなかった。夫にめぐり合う以前、一時期教職に就いていた経験は、彼女を哲学者にしなかった。
 佐藤すみは、頭のいい、適度な教養もある人間だった。人生の全般を通じて、ほかの大勢の人びとよりも運命の風がかくべつ強く吹いたわけではないけれども、自己愛の激しい彼女はその最初のこがらしに耐え切れなかった。彼女の気持ちは年々沈んでいって、自分自身の内部に沈潜したような臆病さが棲みついた。ものを言うことさえ怖くてできないような時期もあった。
 ご多分にもれずこの世は、金と肩書きと、それがもたらす権威がすべてで、世間の隅で愛でられている人格や才能には、いざというときに大舞台が与えられない。そんなものをアテにする生き方なぞ、危険この上ない愚行だ―それが夫と別れてから、もと教師だった彼女が苦しい労働の中で学んだ教訓のほとんどだった。ものの弾みと言えば言えるけれども、スカウトを追い返したのも、その強い信念からやったことだった。
『だれが長嶋や金田のように出世できますか。人並みすぐれた才能があるのはギリギリの条件で、そのほかに、きっと何かの強い縁故があるにちがいないのよ。一介のスカウトの口約束など、信用できるもんですか』
 彼女は、長嶋や金田が世間の片隅から、ひたすら才能だけで選び出され、そして才能を磨く努力だけで勝ち抜いたという事実を知らなかったし、知ろうともしなかった。
「じょうずなこと……」
 たしかにそこにある絵はみなよくできていた。しかし彼女を満足させるには何か足りないものがあった。ロマンチックすぎ、牧歌的すぎるのだ。とはいえ、中のあるものはあまりによくできていて、嫉妬さえ感じた。『夕照』という絵だった。青っぽい光の中で、高いところにある校舎の屋根はほの白く、低いところにある人けのない校庭とイチイの生垣は黒いシルエットなっている。どこかの小学校の校庭だった。銀賞と銘打った厚紙の下に、名前と、息子のかよっていない学校の名が記されていた。たしかに才能とはこういうものなのかもしれないと思った。しかし彼女は、最初の反撥の気持ちのまま、自分の気に入らない関係性のどこかに欠点を見つけようとして、長いあいだその美しい絵の前に立っていた。
 彼女は首を振りながらふたたび階段を昇っていき、時折足を休めてはきれいな色彩に眺め入り、最後の階段を昇り切ったところでとつぜん胸が高鳴った。最上階の踊り場に息子の絵が掛かっていた。彼女は息子の絵に描かれた光景を、それが彼女の目に刻みつけられているのとまったく同じようによく知っているような気がした。彼の絵はほかの作品とちがい、現実的で、甘えたところがなく、身の周りの生活を上手に切り取っているように思えた。

雨上がりの土方 千年小学校六年 川田拓矢 《金賞》
 
 名古屋にきて以来一度も訪れたことのない有名デパートのガラスケースに収まって、息子の絵が展示されているのを見るのは、なぜか当然のような気がした。
 ―野球だけが取り柄だなんて、とんでもない!
 彼女の心の中に蜜が注ぎこまれた。振り返って、息子の絵をほかのだれかが見ているかどうか見回した。だれも見ていなかった。しかし彼女はうれしく、誇らしかった。急いで松坂屋を出て街中へ歩みだすと、彼女は胸を張った。身なりのいい中年の女たちを見ながら、
 ―あんたたち、金に飽かせたいいなりをしているけれど、あんたたちの中で、有名デパートに展示されるような金賞を獲った息子を持っている人は何人いますか?
 と思うのだった。彼女は得意な気持ちで歩いていった。そして、いよいよ厳しくしつけるために、これからも息子を決して褒めまいと心に誓った。もちろんこの日のことを愛する息子には終生語らなかった。