2012.06.03 Sunday
映画評
たまたま私の愛読者だったある大手新聞社の青年が、早稲田予備校を訪れた。『あれあ寂たえ』を手にしていた。『牛巻坂』と『ブルー・スノウ』をほめ、「この文章の書き手が埋もれているのはおかしい。ぜひ世に出したい」と言う。世に出したいということは、まだ私が世に出ていない(=無名)ということに痛みを感じているということになる。彼の新聞社のHPに映画評を連載したいと持ちかけた。私はまず「世に出ていない人の文章を、世の人が読みたがるはずがない」という自分の考えを伝えた。彼は「アクセスは期待していない。たとえアクセスは少なくとも、玉石混交のコーナーへ玉を吹き込みたい」と応えた。ありがたくお請けすることにした。
ためし稿を送った段階で、青年から早速注文がきた。読者を惹きつけるために「あらすじ」を書かないと食いつきは期待できない、と言う。「おや?」と思った。アクセスは期待していないと言ったのではなかったか。たぶん、上層部から青年に落ちてきたクレームなのだろうと思い、彼の苦しい立場を考慮することにした。ストーリーを気にかけながら、なんとか仕上げてはみたが、およそ自分の文章とは思えないたどたどしいものなった。つまり、だれが書いてもこうなるだろうという文章ができあがってしまった。辛い気分に冒された。これでは自分が抜擢された意味がない。
忸怩(じくじ)たる思いで送付すると、オーケーが出た。最低限の抵抗として、自分なりの感覚的な批評は改変しなかったし、採り上げた映画も私の長い鑑賞の歴史から選んだ好みのものだったので、それで納得することにした。やがて青年から、インターネットのクルーザーばかりでなく、新聞社内の人々にも私の文章は不評だと、口惜しそうな連絡があった。―それはないだろう。自家撞着もはなはだしい。その文章はきみたちがクレームをつけて書き直させた文章に、勝手にきみたちが文字校正までほどこした文章だぞ。つまり、私の特徴を削いだ、きみたちの好みの文章だったはずだぞ! それが不評だと言うのは、意識的に自分をこき下ろしていることになるぞ。
国民皆(かい)有名病を患っている今日、考えるまでもなく、セレブリティに飢えた人びとが無名の人間に寄ってくるはずがないと、私は確信していた。それを承知で、名もなき人間を登用しようと上役に図った青年の志に私は感激したのだった。そして、私なりに「玉」の念で自分の文章の光を世の人に知ってもらおうとした。副題や文そのものの訂正を迫られたり、手を加えられたりすることにも懸命に耐えた。しかし、むだな屈従だった。
案の定、青年の志と関係のないところで打ち切りが決定した(それは早い段階のうちだったとあとで聞いた)。理由は、アクセス数が極端に少ないからということであった。「おや?」が的中し、所期の申し出は手のひらを返されることになった。どうせ打ち切られるなら、屈従などせず、大不評のまま撤退するべきだった。芸術家の頑固さが不足していたせいで、私はあの文章を書いたと誤解されながら葬られることになった。
ひとつのことを知った。受けがすべてのマスコミの二枚舌は予想どおりだったので、とりたてて評言するファイトは湧かない。それは既知のことなので、もともと関心事ではない。知ったことというのは、私の文章は、純粋に、「情報の中心に君臨する人びとの興味をかきたてない」という事実である。悲しいことに、それは予想どおりではなかった。知性の膨大な母集団に触れれば、彼らの中からかなりの数で私の文章の愛好家が拾えるだろうと信じていた。現実を突きつけられた。彼らの中の、ほんの一人さえ、私の文章に振り向かなかった。だからこそ原文の改変を迫ったのだ。
私は青年に宛てて「魅力のない文章の瑕(きず)」「無名ゆえの罪」という、自分を責め、反省する手紙を書き、また彼との酒の場でも語った。青年は気の毒そうな顔で盃を含みながら、すでに六十過ぎた男を慰めるために、正義に満ちた発言をし、手紙にも同じ主旨のことを書いてよこした。
考えてみれば、ほんの一人さえ、と書いたのは言いすぎだったかもしれない。百人の味方にも勝る彼がいたではないか。私は彼の心意気に感激して書く気になったのだった。彼に推敲を迫られたわけではないし、改変されたのでもないし、クレームをつけられたのでもなかった。「この文章の書き手」の文章が変質していくのを見るのがいちばん辛かったのは、彼だったはずだ。
青年は私の映画評の連載途中で新聞社を辞め、自分の小さな会社を立ち上げた。彼の報告では、「範囲をかぎらず、埋もれた才能を発掘して、世に送り出す仕事を旨とする会社」なのだという。それだけの説明では、どういう仕組みの組織なのかわからない。しかし、「いずれ先生の作品を世の第一線に送り出したい」と語る彼の情熱にふたたび感激して、私はぼんやりと希望の胸をふくらませると、机上の作品にのめりこむ日常に戻った。