競馬

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競馬がおもしろくなくなってきた。

最近とみに私がいぶかしんでいることは、一日のレースのシナリオができているのではないかということだ。本命に終始する一日、穴に終始する一日。これは理屈としては考えられない。長年の経験則からすると、一日12レース、本命と穴が四対六ぐらいの比率で発生するはずだからである(穴が過半数であるのがふつう)。じっくり観察してみると、本命に徹する日は、無印馬は後方に控えてまったくやる気を見せないか、まかりまちがって勝ちそうになると、手綱を引いて後方の馬群に下げる。穴に徹する日は、なぜか無印馬がシャカリキに先行して、逃げ切るか、逃げ残る。あるいは、無印馬がシャカリキに差しきる。

この傾向は地方競馬も同様で、近年あまりにも露骨である。すべて、本命党・穴党を考慮したファン心理の操作にちがいないが、とてもじゃないが見ていられない。「考慮した」と言うのは、一方へ片寄らせることによって、競馬の難しさから足を洗おうとする素人客を引き止められるからである。

「あーあ、きょうは本命の日か。帰ろ、帰ろ。次回は荒れるだろう」かならず次回はやってくる。

「なんだ、なんだ、12番人気がきやしない。本命馬総くずれの日か。まあ、こういう日もある。次回は実力どおりにくるだろう」かならず次回はやってくる。

両者の意見はまちがっている。本命の日とか穴の日など存在しない。本命も穴も、新聞が決めた幻である。だから、本命、穴、ともにまぐれ当たりである。従ってほぼ同じ比率になる。レース展開を馬や騎手の恣意にまかせると、まず新聞の印どおりにくることはなく、当てにくいことこの上ない。数年に一度現れる天才馬を除けば、馬の実力に大差はないことを玄人(ギャンブルの不確実性を熟知して、そこに没入することに情熱をかけている人びと)は知っている。素人(確実性を愛でる人びと)は、「これがギャンブルなんだな」と納得し、競馬というゲームそのものに懲りて、永遠に足が遠のく。

それこそ自然な成り行きであって、何ものにもめげずやってくるのはギャンブラーのみである。競馬など、玄人が当てたり外したりして遊ぶゲームなのだ。玄人はギャンブル経営がじゅうぶん成り立つ程度に存在する。

どちらかに偏らせれば、素人の本命党も穴党も、自分なりにあてこんだ僥倖を目指して、遠からずかならずやってくる。

「きょうは俺の日だ」と。

素人の数は玄人と比べて圧倒的に多い。競馬はロマンだ、血統だ、タイムだ、調教だ、天候だなどとあおれば、素人はますます浮かれる。主催者はウハウハ儲かる。 

自然な競馬は、馬のヤル気と、騎手の腕のみである。従って、新聞はせいぜい12レース中2レースから4レースぐらいしか当てられない。熟練した予想家の的中率でさえ、10パーセントから15パーセントである。一日のレースが本命だけ、あるいは穴だけに偏ることなど絶対に考えられないのである。

さて、ゲームを純粋に楽しむ玄人である私は、競馬がおろしろくなくなった近ごろ、どういう馬券を買うか。12レースを終えて、多少のプラスがあるか、多少のマイナスですめば適度なカタルシスを起こして机の営みがスムーズにいくので、好きな騎手の単勝・複勝と、無印馬すべての複勝を買って楽しむことにしている。1レース、百円で12点前後、一日12レースで一万五千円ぐらいを使う。コパノリッキーの単勝・複勝もこうして当てた。なお、中央の好きな騎手は、田辺裕信と藤岡康太であり、地方では酒井忍と町田直希である。