はなむけの言葉


はなむけの言葉

 

 

 

 合格、おめでとうございます。刻苦勉励の果てに、ようやく栄光のこちら岸にたどり着きましたね。ふたたび刻苦勉励して、栄光の向こう岸へ渡り切ってください。渡り切らないかぎり、この岸にたどり着いた栄光はぬか喜びに終わります。こちら岸と向こう岸とのあいだに、学究生活という奔流が逆巻いています。きみたちは、それを征服しながら向こう岸へ渡るための堅固な船に乗りこんだばかりなのです。

この船に乗りこむ資格を得ることだけでもいかに困難な仕事であるかは、私どものような舵取りの立場にある人間のほうが、乗船客たちよりもよく知っています。いま私どもは、舵取りの大任を大学に手渡しました。役目上、きみたちとは永遠にさようならです。だから、この言葉は餞(はなむけ)の言葉になります。

大学には何歳からでも入学できます。年齢と関係のない普遍的な学問をする場所だからです。受験勉強とは大ちがいです。才能が関わってきます。才能があると自他ともに認識した場合は、それを生かす道を追求しなさい。ないと認識したら、まじめに肩書を得ることのみに没頭しなさい。いずれも学究生活に変わりありません。どちらの立場の人間も大学は包みこんでくれます。そして、どちらの立場の人間も、栄光の向こう岸に渡ることができます。ところで、単なる卒業は何の肩書にもなりません。社会に重用される資格を得ることこそ肩書です。

学究生活の奔流の中で溺れないようにしなさい。学問も、肩書作りも、年齢とは関係のない大学という名の、足枷(かせ)のない青春の場で行われます。この四年間は、自由に生きられるのです。その自由こそ、人を溺れさせる奔流です。学問も、肩書作りも、成就しない危険性大です。自分にあえて、奔流を泳ぎ切ることに専念するための枷を嵌めなさい。

溺れてしまった実例が、ここに立っています。学問の才能もなく、資格も得ずに、自由気ままな生活の果てに、ぼんやりと卒業し、水商売や臨時のアルバイトを転々としました。たまたま、予備校講師という適所に引き上げられて、生活の資を与えられる僥倖に浴しましたが、僥倖である以上は将来に何の華々しい保証もなく、老いて職掌を途絶するという形でこの場所から出ていかなければならないことは自明です。

きみたちはこうなってはいけない。同じ栄光のこちら岸に立ちながら挫折した経験のある者として、その経験を生かすために進んで舵取り役を買って出た者として、私は君たちを叱咤しなければならないのです。挫折は人生に無意義な多くの苦労を付加します。あまりに苦労の多い人生は、人間を高揚させません。それもこれも、泳ぎ切ろうとする努力を怠ったからです。努力の人であることを哲学にしなかったからです。

ちなみに、現在の私は、努力の人として、遅ればせながらようやく人生の奔流を渡りはじめました。私の場合、奔流とは学究生活ではなく、自分なりの芸術的完成のことですが、きみたちと同じスタートラインに立ったことはまぎれもありません。老い先短いですが、がんばって泳ぎ切る腹づもりでいます。師も弟もありません。いっしょに泳ぎ切りましょう。

輝かしい未来のある人たちに向かって、僭越ながら、以上が私の餞の言葉です。

 

 

 

2015319  川田拓矢

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