苦悩に満ちていない人生に、何ほどの美があるだろう

 芸術がなかったら、自分の人生はどうなっていただろうと思うと、背筋に寒気がよぎる。とりわけ、音楽(作曲・声)、文章芸術の二つ。

映画は私の中で芸術の範疇に属さない。おそらく、美の達成を願うにしては、個人技に徹していないからかもしれない。大勢の人間が寄ってたかって創りあげるという構造のせいで、どうしても方法論に傾きすぎるきらいがあるからだ。その意味で、建築も同様である。個人技であっても、絵画、彫刻、焼物、手芸、料理、楽器演奏等も芸術とは思えない。その理由は、私自身の感覚に依拠しているので、説明できない。

 音楽と文章芸術が私の人生にまだ忍び寄ってきていなかったころ、そのころの喜びを思い出す。それは野球だった。集団の中で、個人の技芸の卓越が尊重されたから。しかも、孤独ではなかった。喧騒にひたされ、野球をしながら死んでいきたいと思った。しかし、目のまわるほどのいろいろな事情のせいで、喜ばしき野球から切り離された。未練はなかった。自分の愛するものは喜ばしくない孤独であると気づいたから。

 苦しみに満ちた孤独な営為美の達成はそれ以外の方法では望めない。日々苦悩に満ちていない人生に、何ほどの美があるだろうか。私は人間の苦悩以外に関心がない。野球に没頭していた日々にも、私はときおり外野の守備位置から空を見上げ、

「こんな楽しいことをしていていいのだろうか。これは人間らしい生活ではない。こんなことをしていては、人間を表現できない」

 と感じたものだった。

最新インタビュー 川田拓矢語録 「お金がものを言う時代について」 2015.4