2017.10.14 Saturday
神田小川町
「むだめし食いだね、おまえは」
高校二年生はむだめし食いに決まっている。私はその日まで、彼女の秀でた顔つきからは想像し難いほどの意地の悪さと共生してきた。いつか親子の関係は改善されると希望を持ちながら。しかし、まったく見当がちがっていたことが、いまの言葉を聞いてはっきりしたのだった。
「むだでないめしを食えということは、働いて食えということだね」
「そうだよ」
「じゃ、どこかに働きにいこう。立派に働いてやる。安心しろ。受験なんてのはどこにいてもできる。そのときには受験料ぐらい送ってよこせよ」
自分が何をしようとしているのかもわからず、私は箸を置いて食堂の外へ出た。社員寮のあてがわれた部屋へ戻り、抽斗のへそくりすべてをポケットに入れて、寮の門をあとにした。ひたすら腹立たしいだけで、地面を歩いている感覚がなかった。
あの女は、息子がかつて不良だったことが無上の喜びなのだ。社員たちの環視の中で、たえずいわくありげな視線で私を刺し貫き、私がひるんだ態度を見せると深い満足を覚えるようだ。息子の更生が自分の手柄としてクローズアップされることを願っているからだろう。社員たちは、君子危うきの伝で、私たち親子を黙殺することに決めている。
『あんたの恋い焦がれた希望とやらを入手するのが、どれほど簡単なことかを思い知らせるために勉強してきたが、もうやめだ。あんたと、あんたの信仰を支持する世間とも絶縁する。簡単に手に入るものなど、希望の名に値しない』
バスのない時刻だったので、名古屋駅まで一時間ほど歩いた。ホームに来合わせた東へ向かう鈍行列車に乗り、朝の八時前に上野に着いた。売店で新聞を買い、早朝から開いている喫茶店に入って、募集欄をぼんやり眺めた。机の抽斗からこそぎ取った数万円がポケットにあるけれども、まず働いて見せなければならない。
コーヒーを二杯お替りしたあたりで、店内のざわめきを子守唄に不覚にも三十分ほど眠りこんだ。店員に肩をつつかれ、三杯目のコーヒーを頼んだ。あらためて募集欄を念入りに調べた。住込み可となっている神田小川町の『アミ』という喫茶店に目星をつけて訪ねていった。痩せて眼の吊り上がった店長に本名を名乗り、
「愛知県の名古屋西高校というところを卒業してから、しばらく区役所に勤めていましたが、自分の本来の仕事でないと思い直し、上京しました。働きながら大学を目指すつもりです」
と言うと、疑わしい表情もせずにすぐ採用した。書類に連絡先を記すよう求められたので、あとで偽りとわかってクビにされたら困ると思い、記憶している飛島建設寮の住所を正確に書いた。午後五時から酒を出すサロンに変わると聞き、兼業農家のような喫茶店だと思った。午前十時から夜十一時までの十三時間労働、時給は二百八十円と告げられた。事務所の窓の外の木群れのてっぺんに、緑色に錆びた円蓋が見えた。私がじっとそれを見ていると、
「明治大学だよ」
と教えられた。二段ベッドが四つ置いてある二階の十帖の板間に案内され、仕事仲間に紹介された。眼鏡をかけた目つきの悪い肥大漢と、すらりとした長髪の色白男、ニヤニヤ漫画を読んでいるリーゼント野郎、九時を過ぎているのにまだ蒲団をかぶっている寝坊助。その部屋には何の緊張感もただよっていなかった。
店長は、ほかに何人か通いの店員もいるとつけ加えた。めったに開けたてしないのか、ベッドの上の小窓に蜘蛛の巣が張っていた。
「川田くんは、社会人経験のある浪人生だ」
と店長が言うと、長髪が笑いかけ、
「俺も浪人だよ。三浪。早稲田の理工学部志望」
と言った。眼鏡デブが、
「何浪したって受かるわけねえだろ、駿台の試験にも落ちたやつがよ」
と嗤った。私は意味もわからず笑いを合わせながら、
「アミって、どういう意味ですか」
長髪に尋くと、
「友だちとか恋人って意味。アミーゴ。英語でエイミャブルと言うだろ」
と答えた。また眼鏡が冷たく嗤った。
白い上着と黒ズボンを支給され、一時間かけてその寝部屋と便所の掃除をさせられた。店内全体の床や備品は何人かで手分けして磨きたてた。床から三十センチほど突き上がったプラットフォームが店の隅にあった。マイクが立っていた。
「あそこは何ですか」
「ステージ。三日おきに歌手がくる。一時間だけ歌う」
長髪が教えた。掃除がすむと、
「きょうは、喫茶のほうは、水だけ運べ。サロンになったら、仕事をしなくていいから。ウェイターの仕事の種類と作法を見て覚えろ」
とデブに言われた。二階へ上る階段の中ほどから観察するようにと言う。
喫茶店の時間は、かなり暇だった。三十分に一組ぐらいの客しかこず、水のお替りをするやつもほとんどいなかった。ただ、足が疲れた。足の裏がどんよりと痛むのだ。ときどき踵を回して痛みを紛らした。
五時半ごろから立てこんできた。ほとんどの客がコーヒーや紅茶ではなく、ビールとたっぷりした食事を頼んだ。ハンバーグライスなどという注文の声も聞こえたが、三人に一人は焼肉定食だった。店長はそわそわし、たえず眉をしかめ、神経質そうにしていた。ボーイに口やかましく命じて、水をつぎにいかせたり、コーヒーのお替りを持っていかせたり、厨房を覗いてコックをせかせたり、かと思うと、いつのまにかレジの仕事に精を出しているというふうだった。仕事にこれほどあからさまに苛立ちを示しながら、仕事を好んでいる男の行く末を考えてみたが、終点のない環状線のイメージしか浮かばなかった。
「あいつ、整形だぜ。こめかみの両ハシ切って、目を吊ってんだよ」
デブが言った。そういう空しいことをするのも、彼なりに悩んで下した結論だろう。私は何の関心も抱かなかった。
夜の九時を過ぎて、背広を着こんだ小太りの歌手がやってきた。四十あと先。聞いたことがない名前だったので、ドサ回りの売れない芸人にちがいない。カスケーズの『悲しき雨音』を日本語で歌った。声量だけやかましいくらいあって、音程は不安定だった。
歌手が帰ったあと、店の裏手にある明治大学へ出前にやらされた。教授室のようなところに焼肉定食を届けた。背中だけで応える男に、品物の名前を告げ、彼の背後のテーブルに置いて引き上げた。
岡持ちを提げて小暗い住宅街を出ると、御茶ノ水橋から小川町へ下っていく街並がネオンにきらめいていた。大勢の人びとが歩いている。御茶ノ水駅から吐き出されてくる人波だった。顔を上げている人がほとんどいない。この中に紛れて歩くのは簡単そうだ、自分に似合った生活かもしれないと思った。
出前だけで一日が終わったわけではなかった。十一時閉店のあと、十二時まで全員で清掃をやった。この一時間は無給だとデブが言った。そのあとで麻雀に誘われた。
「やったことがないので、ちょっと」
「一晩で覚えるから」
デブが苛立った声で言った。仕方なく仲間に入った。テーブルを二つ合わせてその上に毛布を敷き、ジャラジャラかき混ぜた。
「ほんとはテーブルクロスがいいんだけど、音が大きいと近所から苦情がくるんでね」
長髪が言う。彼が四浪することは確実に思えた。デブは勝負の合間にしきりに床に唾を垂らした。そのトロリと垂らすやり方が、社員寮にいた詩吟男の小林さんに似ていた。よく見ると、小林さんとそっくりな顔だった。漫画野郎が勝った。結局一日分の給料を超える金を吸い上げられた。ポケットの金を出して払った。
「給料日払いでツケにしといてやろうと思ったのによ。気前がいいじゃねえか」
デブが時計を見上げると、五時になっていた。ゾロゾロ寝部屋へ上がり、空いているベッドに倒れこむようにして眠った。
つかの間の浅い眠りから起こされた。八時半だった。ぼんやりして、少し頭痛がした。デブが、
「めしだ。ステージの奥の食堂にいけ。九時から掃除。九時四十五分、着替えて待機」
こいつらは眠らないのかと思った。
掃除を終えて着替えているとき、長髪が煙草を勧めた。私は会釈し、あたりまえのように一本抜き取り、あごを差し出して火を点けてもらうと、慣れたふうに深く吸いこんだ。そうしなければならない微妙な見栄があった。とたん、ぐらぐらと目まいがし、そのまま壁に沿って横滑りに倒れた。
「なんだ、吸えねえのかよ」
デブが吐き出すように言った。こんなところにいる何の意義もなかった。しかし、当分ここにいなければならない。一回でも給料をもらってみないと、人びとが後生大事にしている労働の意義がわからない。意義とは、何につけ、苦しみや痛みが喜びやありがたみに収斂することなのだろうが、それは余儀なく働いている人間にしかわからない哲学だろう。いまの私の労働に必然性はない。むだ働きに終わることはまちがいない。それにしても、もう少しここに留まらなければ、啖呵を切ったことが道化になってしまう。
寝不足のせいで一日が地獄だった。五時までの喫茶部をなんとかやりとおしたが、しゃがみこみたいほどの疲労感に苛まれた。サロンへの切り替わりどきに、蝶ネクタイをするように言われた。長髪に教えられたとおりやってもどうしてもうまくいかないので、頼んで結んでもらった。
軒灯だけの薄暗い玄関ドアのところに立ち、客がくるたびに、
「いらっしゃいませ」
を繰り返した。明治大学に何回も出前に出された。閉店後の掃除が終わり、しつこい麻雀の誘いを断ると、仲間集めに電話をかけまくっている男たちを尻目に二階へ戻り、ベッドに潜りこんだ。泥のように眠った。それからの数日をこの伝ですごした。
小川町には古本屋が軒を並べていたので、昼のうちせっせとかよった。ボストンバッグを買い、梶井基次郎、尾崎一雄、長谷川四郎、和田芳恵、梅崎春生、林芙美子等、じっくり吟味して手に入れた本を貯めていった。単行本が十冊ぐらいになった。給料が貯まって、アパートでも借りたときに読もうと思い、一ページも開かなかった。
かよいの店員に気さくな明大生がいて、最初の休日、彼に連れられて新宿まで舞台劇を観にいった。明大演劇部の定期公演だという。裾の広いラッパズボンが街にあふれていた。一人残らず髪が長かった。朝鮮ヒゲもちらほら見かけた。めずらしいものとして記憶した。
「異化効果を最大限に発揮した芝居なんだ」
と、いつかサイドさんの家で善夫から聞いたようなことを言った。理屈ではなく本能で感じる ― たしか異化とはそんなことで、よくわからない定義だった。
その芝居は、いっさい脈絡のない意味不明の科白から成り立っていた。どぎつい告発が含まれているようだったけれど、その享受者を無視したインテリくさい作法に退屈した。客は折畳み椅子の座席に縛りつけられ、形も大きさもないエーテルのような存在になっている。彼らからは何の有機的な反応も期待しないというわけだ。しかし、科白の連関は意味不明だとしても、言葉そのものはわかりやすい平凡な概念を表したものだった。
「ありし日は、住む人もいと多かりし、ここなる都もさびれはて、哀れ、はかなく横たわり、ヤモメのごとくなりしかな。むかしは民の王にて……」
といったようなありきたりの慨嘆が、舞台の上だけに留まって、そこで完結し、満足気だった。エーテルたちからは喝采も起こらず、野次も飛ばず、土くれのようにしんと静まり返っていた。どうにも腹立たしかった。西高の同級生の水野や原田の人間的な高級さを思い出した。彼らを置いてきたことにとつぜん思い至り、胸が騒ぎはじめた。もう、一週間も経っている。いや、アパートを借りるまでは彼らに知らせてはいけない。知らせれば、彼らはたちまちやってきてこの労働を剥ぎ取り、私に安楽を与えようとする。いまは、労働の成果を母に示さなければならない。水野たちは心配するだろうが、少なくとも一カ月は連絡をとるのをやめよう。
それからまた一週間ほどして、ステージがたけなわのころ、
「いらっしゃいませ」
と言って顔を上げると、戸口のところに喪服のような黒い上下のセパレートを着た母が立っていた。顔に怒りはなかった。
「おやおや、こんなことをしてるの」
皮肉らしく笑い、
「すぐに責任者のところへいきましょう」
と言った。すでに店長は事務室にいて私たちを待っていた。
「高校を出て区役所に勤めていたわりには、まったく社会生活のにおいがしませんでしたのでね。勤めぶりは群を抜いておりましたが」
店長は母に吊り上がった目で微笑んだ。不気味だった。二人の話の内容から、店長自身が飛島寮へ連絡をとったものだとわかった。母は店長に、息子がまだ十八歳の高校生だということや、親子のちょっとした諍いから家出したのだということを手短に話した。店長はいつもの苛立った表情をおさめ、何の苦情も言わず、それとなく下手に出るような態度をとった。
「そちらの住所を書いてください。働いた分はかならずお送りします、と言いたいところですが、川田くんはこの近所のテーラーに背広の注文を出しておりましてね、まだできあがってきてないんですよ。その分を引きますと、二週間程度の給料からかなりの足が出ます。差額はけっこうです。背広はこちらの社員に支給しようと思いますので」
と言った。たしかに、ここに勤めて三日目か四日目に、古本屋街を歩いたついでに、仕立屋に寄って背広をオーダーしていた。学生服しか持っていなかったからだ。しかし、言い値は二万円程度のもので、四万五千円を超える二週間分の給料でじゅうぶん払える金額だった。私はとつぜん強欲な面相に見えはじめた店長の顔をつくづく眺めた。疑って名古屋に連絡するなら、初日にもできたはずだ。しっかり太らせてからシメたというわけだ。
持ち帰る荷物はボストンバッグ一つだった。その重い感触は腕に快かった。上野駅で母と二人並んで、ホームの端の暗がりに立った。暗いせいで彼女の表情が見えず、自分の顔を緊張させないでいられることがうれしかった。彼女に対する怒りは収まっていなかったが、無益な労働から解放された喜びのほうが大きく、わざわざ迎えにきたことに免じて怒りを相殺してやろうという気分になった。
「土橋校長先生が心配してね、私が迎えにいこうかとまで言ってくれたんだよ。おまえは西高のホープだからって」
めずらしく褒めた。車中で、生まれて初めて母から弁当を買って与えられた。鮭の切り身の大きい幕の内弁当だった。
「かあちゃん、鮭が大好き。毎日でも食べたい」
「ときどき、下働きのカズちゃんが、鮭のおにぎりを持たせてくれる」
「私だって、忙しくなければ握ってあげるよ。彼女の三倍も五倍も忙しいんだから」
「鮭というから、カズちゃんのことを思い出しただけだ」
「働くというのは、たいへんだろ?」
「ああ、無意味にね」
「でも、まあ、おまえがよく二週間ももったよ」
寮に戻ると、山崎さんが肩を抱き、三木さんが握手してきた。
「いい人生勉強をしたね」
と言った。佐伯さんは涙を流しながら、私の胸をドンとこぶしで突いた。彼らの寡黙な胸の内は、いつも騒いでいたのだった。それがわかっただけで、この寮でしばらく耐えていけると思った。大沼所長が、
「一円にもならなかったらしいじゃないか。給料というのは、この搾取社会では手にしてナンボだ。金は使いでがあるという意味では、アブク銭がいちばんいい。働いて得た金にはケチくさくなるもんだ。金にケチくさくなったら、男じゃない」
これまで所長や社員たちが、これ取っとけ、何かの足しにしろ、などと言って折に触れて手渡す小遣いは、何気なく抽斗に貯めておくと、毎月母の給料ぐらいになった。使い切れないアブク銭だった。今回もその金で家出したのだった。
電車に乗ってはるばる出かけていったネオンの街で、私はどんな人生を想い、何を勉強したのか。どんな場所にいても自分は最大限の精勤ぶりを示すまじめな人間なのだということがわかっただけだった。ある場所にたまさか属せば、その場所で奮闘して死ぬ人間。それはよいことか、悪いことか、悦ばしいことか、哀しいことか判断はつかないけれども、自分がきわめて律儀に集団の器に従う小粒な人間だとは思い知った。あれほど怒り狂って見境もなく出奔したにも関わらず、私は怒りに値する哲学を持っていなかったわけだ。労働の場所を与えられれば、たちまち唯々諾々として集団の羈絆に従う人間に、マシな哲学などあるはずがない。これは勉強と言えるものだろうか。たぶん明晰な哲学を持たないおのれを知るというポジティブな学習だったと感じる。
― 彼らは人と和合するために、主張すべき自我を持たずに生まれた。私も彼らの一員なのか? だとすれば、彼らを愛せなかったのはなぜか?
たしかに、あの場所は属して好ましい世界ではなかった。それは職種が好ましくなかったという意味ではなく、労働に追われて沈思する時間が持てない人間の集まりだったという意味だ。私は和合型の人間かもしれないが、和合した彼らを愛せないという意味で、人間的に一線を画していた。つまり私は愛を求めず、ひたすらものを思いたがる人間だったということだ。それなら、人と和合しながら沈思する行為そのものを職業にする以外、好ましい世界に属することなど見果てぬ夢だろう。
以来私は、思索を求めて、芸術家という仕事にあらためてあこがれるようになった。そして、多くの年月を経て、芸術は思索や創造を旨とする仕事ではないと認識するようになった。見返りを求めず、愛を求める行動に明け暮れて生き、倒れる、そういう精神と肉体の在りようを表現する生活そのものこそ芸術だとわかった。その認識のもとで、いまなお私は見果てぬ夢の中で生きている。