肉体労働

 飯場育ちの私は、肉体労働を理想の職業と観じて、切実にあこがれていた。

 早起きをして、高円寺駅の売店でアルバイトニュースを買って喫茶店に入った。きょうから新しい生活が始まる。モーニングサービスを食いながら、土工の仕事を探す。案外少ない募集の中から、時給のいちばん高いものに決める。武蔵小金井・大林組マンション建設作業員・時給千五百円・日勤日払可・就労九時〜十七時・休憩十二時〜一時・宿泊設備あり・面談・履歴書不要。日払可に注目する。高円寺から一本でいける。駅の路線表示で片道の交通費を確かめる。三百七十円。

 家に戻り、冬物のTシャツと綿パンに着替えた。日払いなので帰りの交通費は要らない。ポケットに片道の交通費を入れる。昼飯は食わない。家に戻ってから、焼肉でも食いにいこう。きょうからコツコツ稼ぐのだ。ズック靴を履く。千年平畑の高架橋の下へ出かけていく気分だ。やわな労働などまっぴらだ。

 さびしげな武蔵小金井駅に降り、新聞に書いてある住所を頼りに建設現場にたどり着いた。乱雑に建築資材が山積みされている傍らに、鉄骨だけの建物がそびえている。まだ四階までしか組み立てられておらず、最上階から触覚のように無数の鉄棒が突き出している。事務所にいく。

「早稲田の学生さん? きついよ。無理だと思ったら途中で帰っていいからね」

ヘルメットをチョコンと頭に載せた現場監督が言う。

「だいじょうぶです。やれます」

「じゃ、すぐかかってくれ」

 建物の裾にいき、ニッカボッカに地下足袋の作業主任に挨拶する。軽蔑したような目で見る。

「階から階へ四枚の板が渡してあるだろ。あれを歩いて一番上まで鉄材を運ぶ。担げるだけ担げばいいが、五本はつらい。三本ぐらいにしておけ」

 すでに何十人もの作業員たちが持ち場についている。声をかけ合っている。鉄材を運んでいるのは四、五人だけだ。私のような格好をしているやつは一人もいない。すれちがう男たちが、主任と同じ目で私を見る。

「ほれ、これを肩にあてたほうがいいぞ」

 厚手の雑巾のようなものを放ってよこす。鉄材は空地に無造作に積まれていて、直径二センチくらい、長さ四メートルほど。一本を持ち上げてみると、とてつもなく重い。これはたいへんなことになった。あたりの男のまねをして、しゃがみこみ、三本ようやく肩に載せた。棒がしなるので、立ち上がるのがえらい骨だ。重心を見つけてどうにか立ち上がり、歩きだす。鉄材のたわみに負けてよろよろする。五十センチほどの幅の板に乗り、登っていく。牛の歩みだ。肩に異様な痛みを感じる。男たちが併行する別の板を歩いて追い越していき、三分もしないうちに降りてくる。ボルトを打ちこむ音、溶接の音、時折の人声。現場というのはこれほど静かなものなのか。西松建設の労務者たちもこうだったのか。四階まで十五分もかかった。大汗をかいている。青物問屋のアルバイトの十倍もきつい。コンクリートの床に鉄材を投げだし、降りていく。

 二度目は多少慣れたのだろう、十分ほどで登りきった。引き返そうとして、とつぜん目まいがした。両手を膝に突いてこらえる。ああ、何をやってもだめだ。みっともない。理想の仕事をしているのに、少しも美的でない。こんなみっともない男に、当然だれも励ましの声をかけるはずがない。よし、今度は四本だ。

 立ち上がるのがやっとだった。板を登りはじめたところで、吐き気に襲われ、うつむいた拍子によろめいて横倒しになった。投げ出された鉄材の上に吐いた。モーニングサービスがすべて出た。

「帰れ、帰れ!」

 主任が叫んでいる。彼の言うとおりだ。そうするしかなかった。手で口を拭い、うつむいて表通りへさまよい出た。胃がへんに痛む。自分に呆れて、涙も出ない。ふと、帰りの電車賃がないことに気づいた。途方に暮れた。

 ―なんてことだ。きょうから新しい生活が始まるだと?

 目についたポリスボックスに立ち寄り、人のよさそうな警官に頭を下げ、財布を落としたと嘘をついた。四百円借りた。しっかり住所と名前と身分を書き、後日、お礼がてら返済にくると約束した 。

「四百円でも公費ということになるから、そうしてくれるとありがたいな」

 商店街を歩いて、肉屋で二十円のメンチを買って食べた。胃袋の痛みが消えた。中央線に乗って高円寺へ戻っていく。窓外に真昼の光がある。無能な男を虚しく包む慈愛の光だ。飯場で六年も幼少時代をすごし、土工を地上の星に見立ててあこがれつづけた勘ちがい野郎が、星の光の底力を初めて知った。無様だ。

 最大の希望が消えた。同時に気取った哲学も消えた。正確には、持病の倦怠を治療する最後の拠りどころを失ったのだ。

 数日後、あのポリスボックスに出向いて、別の警官に四百円を返した。倦怠は人を不誠実にしない。無能でも誠実に生きていける。一縷の希望としてそれだけが残った。