幻想

 短パンに野球帽をかぶりグローブを持った女が、塁審に付き添われてベンチとカメラマン席とのあいだの通路から出てきた。満面の笑みで四方のスタンドに手を振りながら、夕焼けの残光を頬に受けてマウンドの裾に立つ。幸福感のにおわない全力の笑いに胸が痛んだ。投球したボールは三塁側へ大きく逸れ、キャッチャーを困らせた。女は大任を果たしたかのごとく、また満面の笑みで四方に手を振った。彼女は野球に興味はない。あるのは、晴れのマウンドに立つことのできる自分の名声と、その名声に課せられた任務の遂行だ。

 名声ばかりでなく、人の命もあっけない。なのに人は、この生活が、この世の中が、この命がいつまでもつづくだろうと漠然と考えて生きている。そして、幸福でない。すべてが幻想なのだと思い知るときをなるべく早く経験するのがいいのだ。そうすれば、いまの一瞬一瞬の幸福感が最大になる。

 

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