早稲田に入学してひと月ほど、さまざまな授業に出た。教授たちの特徴は、巷間の情緒を笑い飛ばすことだった。彼らのものの見方の一面性からすれば、たしかに、そういう情緒のすべてが非常に単純で明白だったにちがいない。

 

 名もない人間どもの愛とか、友情とか、苦悩とかいった、学問の糧にならない非論理は、歯牙にかけるべきものではない――その意味での彼らの自信は揺るぎないものだったので、非論理に対する論理の優越性を疑うようなやつは、軽蔑するか屈服させるかのどちらかしかありえないのだった。

 

 大学の教師たちが認めるのは、自分と同等か同等以上の知識人、あるいは自分を崇拝する同僚や学生たちだけだった。彼らはすでに『学問』への情熱を失い、居心地のいい権威集団の片隅に安住していた。むろん、黒板の緻密さを見れば、たとえ付け焼刃でも『学習』は熱心につづけていることはわかった。その精力だけはまがいものではないようだった。ある意味そういう独善は、スケールこそ小さいけれども、英雄の証だ。しかし色を好むはずの彼らに色気を感じなかったのはなぜだろう。

 

 

JUGEMテーマ:読書

 

 

 

 あの六カ月にわたる探索のあいだ、私はおめでたくも信じていたのだった。滝澤節子は絶望の苦しみを越えて、再会の希望の中に生きている、操のように保ちつづけた希望の中へ私を迎え入れるために、だれにも、私にさえも居どころを明かさないで、ひっそりとどこかの町にひそんでいる。そう思うと、滝澤節子の裏切りに対する怒りが和らいでいくような気がした。

 しかし、あのアパートのドアが開いた夜のなんと残酷なことだったろう! そしていまではなんと遠いことだろう! 

 

 

JUGEMテーマ:読書

 

青森高校の寮にいたある一日、むしゃくしゃして、なんだかいまこの瞬間から生きていくのが面倒くさくなった。戸が勢いよく開いた。

「ああさっぱりした。ひと勉強終わったよ。休憩!」

振り向くと、山口がギターを提げて立っている。

「お、ストーブ買ったのか。俺も出さなくちゃ」

私は険しい表情で罵った。

「ここはきみの休憩所じゃないぞ。休憩なら自分の部屋でしろ」

山口は目を大きく見開いて、その場に立ち尽くした。彼が顔でもゆがめれば、私は言いわけをしたかもしれない。しかし山口は、悟りすましたようにこう言ったのだ。

「……そうだな、おまえの言うとおりだ。芸術家は、思索するのに忙しいからな。悪かった。もう、おまえのじゃまをしないようにするよ」

山口はひどく穏やか声で言ったが、私は彼の心の痛みをじゅうぶん感じることができた。山口は私を見つめた。視線が私を貫いた。それは怒りもなく、静かで、とても精神的だった。

 ―ひどいことを言ってしまった!

山口はしばらく私の言葉を待っていた。友が癇癪を起こした秘密を洩らすのを待っていた。しかし、生きていくのが面倒くさくなったなどと語り出せるはずがなかった。私は机に座った姿勢のまま、ストーブの火に目を移した。

「じゃな」

そう言って戸を閉めようとする山口に、

「ごめんね。悪気はなかったんだ」

山口はたちまち相好を崩した。事情を説明する切実な言葉が浮かんできたけれども、口に出すことはできなかった。

「気にしなくていい。何かを言ったりやったりしたら、それで一巻の終わりなんてことはないんだ。……悩みがあるんだろ? 聞かないよ。聞かされたって処置に困るだけだ。気分がよくなったら、ギターでも聴きにこい」

彼はスリッパを鳴らして去った。私はいちどきに疲れ、椅子から崩れ落ちるように畳の上に横たわった。

 


Calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< January 2018 >>

Archive

Recommend

あれあ寂たえ―夜の神話
あれあ寂たえ―夜の神話 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
 筆者18歳から書き溜めた随想集の集大成。
 本の題名である「Alea Jacta est」は、ラテン語を日本語にモジったもので、「ああ、よくここまで生きてきたものだ」の意味。
  エピグラフは、旧約聖書の「伝道の書」。
   『すべてのことは人をうみ疲れさせる
   人はこれを言いつくすことができない』

1  笑い疲れているが、あしたも笑うであろうということ。
     ・・・・・・・・・・
  山師にまごうかたなき挙措を、あしたも耳朶を戦かせながら繰り返すであろうということ。
  きょうと同じように、あしたもこの世の摂理に殺されつづけるであろうということ

Recommend

風と喧噪
風と喧噪 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,800円
『もっとさびしい唄が聴きたい。 聞こえる、聞こえる 窓のむこう 耳を濡らして、夢醒めた夜に。』p.206抜粋
「牛巻坂」の続編とも言える作品。主人公・純一はどうして死を選んだのか。

Recommend

牛巻坂
牛巻坂 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格:1,890円 国内配送料無料
愛―このありふれた歓びと苦脳に翻弄される少年の魂。繊細かつ豊饒な筆致で描き出す凛烈な抒情。

Recommend

鯉人―淀屋辰五郎想い書
鯉人―淀屋辰五郎想い書 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格(税込): 3,150円
元禄一代男淀屋辰五郎―その凄絶なる滅び。天下の台所大坂に君臨した御用商人「淀鯉」の盛衰絵巻を異才川田拓矢が鮮烈に描き切った入神の傑作。

Recommend

全き詩集
全き詩集 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,456円 
川田拓矢の詩は滑らない。
世界の中心に向かって最短距離を疾走する彼の言葉達は無謀なヘッドスライディングを必要としないのである。
―竹内銃一郎(劇作家)―

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM