人間の歴史にとって価値ある言葉を発した人間の名前は永久に知られない。それはおそらく変哲のない集団にいる無名の人であり、大勢にとって見知らぬ人であり、ふだん大勢から忘れられていた人であり、彼ら同胞の片隅を過ぎ去ってゆく真の英雄である。そういう無名の偉人は、なぜかかならず人類の危機と社会の黎明期に混入されていて、ある大切な一刹那にまるで神がかりのような断乎とした決定的な一言を発し、電光の閃きのうちに一瞬間人びとを代表したのち、またたちまち暗黒の中へ消え失せていくのである。

 書物――私はそのときまで孤独で、思春期の習慣からモノローグと脇ぜりふとに傾いていたので、紙の上を飛び回る活字にいささか辟易した。あまりにも自由な情緒の入り乱れた騒ぎを見て、私の頭は旋風のように渦巻いた。ときには、印刷されている感情が目くるめく混乱してしまい、遠く逃げ去ってふたたび取り戻せないように思われた。哲学、文学、美術、歴史、宗教、すべてが思い設けない言葉と方法で語られるのを私は聞いた。私は不思議な境地を瞥見した。そして幼い視点でしかそれを見られなかったので、なんだか混沌界を見るような心地だった。いままですべてのものを見ていた角度がぐらつきはじめた。地震にも似た革新が私の頭脳の全世界を揺すった。不可思議な感性の動乱だった。私はそれにほとんど苦しみを覚えた。
 ……以来、私は、事実よりも理想を好み、英雄よりも詩人を好み、事件よりも書物をいっそう賛美するようになった。人はその思想するものよりも、夢想するものによっていっそう確実に判断される。思想の中には意志があるが、夢想のうちにはそれがない。まったく自発的である夢想は、魂の形をとりそれを保全する。燦然とした宿命のほうへ向けられる無意志で限度のない憧憬ほど、人の魂の底から直接にまた誠実に出てくるものはない。こしらえ上げ、推理し、組み合わせた思想の中よりも、そういう憧憬の中にこそ、人間の真の性格は見出される。夢想こそ、最もよくその人に似ている。

 社会の契約、人民の権利、民主主義、文明、進歩、などというすべての信条は、私にとってほとんど何の意味もなさなかった。私はあらゆる政治・学術上の信条にまったく無関心で、そんなことはどうでもかまわなかった。そういう知力の乾涸びた潰瘍は、私の精神の中に完全な観念を一つも残さなかった。その潰瘍は、私の考えでは、科学やイデオロギーを自慢するくちばしの黄色い衒学者の胃袋に巣食うものだった。
 世界には眺めるに値するあらゆる種類の草や花や木があり、ひも解くに足る多くの書物があるのに、憲法だの民主だの進歩だのという児戯に類することについて、人びとが互いに喧々囂々と論じ合うということを私は理解できなかった。
 私は、そういったもろもろの信条を嗤う冷淡さに相反する愛を持っていた。私のエスプリはそれらの知力なくしてもすますことができたが、私の心は愛と友情なくしてはすますことができなかった。それは自分では解明できない深い矛盾だった。なぜなら、愛は熱き信条だったから。


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     ・・・・・・・・・・
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