眼高手低(がんこうしゅてい)の恥を、評論家は権威の大風呂敷で包む。

 私の作品には熱狂的な支持者がいる半面、歯牙にもかけない人たちがその数百数千倍いる。その理由は私の《無学》である。つまり、私の小説は《子供の読み物》という定評が定まっている。したがって、知識の吸収欲にあふれる学生や巷間の知性人は、ページを開くや否や一読に値しないものとして切り捨てる。大学生の私のファンからも、職場関係者からも、また友人からも同様の報告はしばしば入る。
「仲間に勧めてみましたが、知性がないので、ダメだということでした」
「簡単すぎてね」
「俺は好きだし、鬼的な文章力だとは思うけど、論理がデタラメだからなあ」
 著者である私には、正直なところ、何がダメなのかわからないのである。元来、鑑賞者は芸術に対して知性や複雑さや論理を求めるものではないし、作品の価値はひたすらその美的な性質と人間的な内容で決定する。また、多読家の私が自分の作品を検討してみると、すぐれた作家に比べて、あまりに知性や複雑さや論理に満ちていてイヤになる。数学の教師で職歴を開始した私の本来の姿が彷彿として、泣けてくる。
 私は人が思うよりも、また外見の冴え具合に反して、教養がなく、浅学であり、頭蓋に詰まっている知識は青年時代、つまり十四五歳から二十四五歳のころに身につけたものに留まっている。ここ一世代ほどの文化現象に関しては、何の概念も持ち合わせていない。その種の会話になると、問われないかぎり礼儀正しく口を噤(つぐ)んだり、問われれば直観に頼って当たり障りのない言葉を多少語ったりすることはできるが、世上に何が起こっているかは何もわかっていない。おそらく私は、最近ではその見本がきわめて残り少なくなった部類の浅学者であるにも関わらず、私のする話は案外に論理的でわかりやすく、そのわかりやすさのゆえに、事象に対する私の単純な理解をさらけ出し、能天気な調子とエセ哲学者ぶりとを示している。しかし、これぞ大衆を惹きつける素であるはずだ。
 ならば、知性人以外の人びとが私の文学を支持してくれるかというと、これまた歯牙にもかけられない。彼らはやはり、知性人がよしとするもの、あるいはメディアがよしとするものを手に取り、それをよしとするのである。曰く、
「川田の作品は大衆性がなく、難解だ」
 これではまるでナゾナゾである。知性には欠けるし、簡単だし、論理が破綻しているし、大衆性がないし、しかも難解なのである。まったくちがった価値観を表明するそのような見解を総合して思索を発動させることは、もはや私には不可能である。それは私に真の教養がないせいか? おそらくそうであるにちがいない。文章に斧鉞を加えすぎるせいか? おそらくそうだろう。頭が悪いせいか? おそらくそうだろう。大衆に媚びないせいか? おそらくそうにちがいない。論理的すぎるせいか? まぎれもなくそうであるにちがいない。あるいは、こうなったらハッキリと、
「あんたがいつまでもぐずぐずと無名でいるからだよ。肩書きのない弱者であることが決定されたあんたには、せいぜい好きなことを言ってやるのさ」
と教えてくれたら、どれほど心が安らぐことか。いずれにせよ、私は(かくも真の教養に欠けているがゆえに、考える力のないゆえに)現代のあらゆる《独創》を無二の敵と見なし、そんなものは下品な人間のトリックに他ならないと確信しているのである。

 ついに淀屋辰五郎を書き上げた。題して『鯉人』。三年半かかった。推敲に半年。資料は日本史の教科書レベルのものしかなかったので(大坂の富商淀屋辰五郎は華美禁止令に逆らって闕所追放となった――この一行だけ! しかし、吝嗇と臆病で名高い大坂町人が幕府に逆らったというこの一行が私を創作へ駆り立てた。書きたいと思ったのは四十年前である)、辰五郎の生きた元禄時代そのものを諸書で猛勉したあと、時代背景から人間関係まで99%想像で書いた。『夜を渉る』以来の暴挙である。あの作品も想像で書いたことを信じてもらえなかったので、今回もおそらくそうだろう。私はまるで見てきたように嘘が書ける天才なのである(未来には興味がないのでヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』のようなSF小説は書けない)。じつは、プロの選考委員にも身辺小説と誤解されたこれまでの作品もすべて(『五百野』ですら)、90%以上想像で書いている。私はよほどの嘘つきか、空想家なのだろう。だから今回の作品も、リアル性がないなどと批判を受けなくてすみそうだ。よいものに仕上がった。普遍的なものを書いた。そのために機(はた)を織る鶴のように極限までからだを酷使したので、しばらく予備校で教えたり、競馬をしたりしながら、徹底した休息を取らなければいけない。想像の翼を作品という布地に織り上げる嘘を華麗に仕上げるには、命を削るほどの体力が必要なのである。英語の勉強と競馬は、私にとって最も効率のよい休息である。そこには結果を期待するリアル性しかないので、そのあざやかな対照で、かえって現実空間に安らぐことができるのだ。音楽や映画や読書は、いよいよ疲れが増すものである。だから、毎回、作品を仕上げたあとは手をつけないようにしている。


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