ものを書いていて鉛筆の芯をあまり折らなくなった。老いたのだろう。そんな思いを抱いていたある日、勤続二十年の表彰を受けた。人は老いると何かで表彰されるものだと思った。賞状を手渡した人は、私の敬愛する早稲田予備校の理事長である。二十年前、風来坊の私に社会的地位を保証してくれた人物であり、爾来、私の文学の支持者でもある。喜びはひとしおであった。
 賞状というものをいただくのは小学校六年生以来である。〈雨上がりの土方〉という絵によるマグレの金賞だ。老いてのちの幼児回帰。幼年期、老年期、人はいずれの時期も温かい目で見守られるのが世の摂理のようだ。不思議なことに、還暦が近づいて、年々生徒の支持も高まってきた。とはいえ、ほとんどの老人が疎んじられる現今の切り捨て文化の中で、若者ばかりでなく、諸方から敬老の精神を発揮してもらえる私は幸運児であると言えるだろう。
 この五月、私は五十九歳になる。根拠もなく二十六で死ぬと決めていた蒙昧の時代から予定の倍以上を生きた。人に守られ、事に恵まれ、夢のような幸運の三十三年間であった。しかし、私はそれに先行する不運の二十六年間を書くためにその三十三年を生きた。これからの年月も生きつづける。幸運の付け足りを彫琢できる日がくるかどうかは心もとない。おそらく書かないだろう。

 私は現実の人や事象を、現実に囲繞された人や事象として見ない。現実に目を閉じ、永劫不変の観念境に飛翔しようとする。私の視野には、記憶された理想世界だけがある。もし私が現実のために性格を変えてしまったとしたら、そういう私はもう私ではない。私はどこまでも理想を考える。私は現実の相をもって観念上の理想を喚び起こす媒介とする。
 私の現実認識があまりにみすぼらしいのを気の毒がり、もう少しうわべを整えるよう諷する者があるが、私は耳にもかけない。だれしも現実が見えないことは不幸だと思うだろうが、私は理想にこだわることによって不幸という感情を味わった経験がない。むしろ反対に、この世がパラダイスにでもなったように思われ、理想とただ二人で生きながら彩り鮮やかな極彩色の世界に住んでいるような心地がする。
 それというのも、現実を考慮しなくなると、それに拘泥していたときに見えなかったいろいろのものが見えてくるからだ。人の心の美しさもしみじみと見えてきたのは、理想を思うようになってからだ。現実認識に齷齪していたときにこれほどまでに幸福感を得られなかったのはなぜだろうと不思議に思われる。
 人は記憶の中の理想世界を失わないかぎり、傍らに現実に存在しない人を夢に見ることができる。それどころか、現実の中で生きている現実の人まで夢のような理想の中に見ることができる。現実にそばにいたとき(あるいはいるとき)とはまったくちがった像を作りあげ、いよいよ鮮やかにその姿を見ることができる。醜を美に回帰させることができる。
 すなわち、人や事象を芸術作品として描けば、それらは現実に存在しない作中物と同様なものと看做しつづけることができるが、逆に私のほうから現実に生きているものに働きかければ、それが何か疑わしい捉えどころのないものと考えざるを得なくなり、そのためにかえってそれらが何か超現実的なものとなる。私はその超現実感を享受し、また同時に、いったいなぜいまそれらが私にそう見えるのかを理解しようとする。私は注意深くそれを見つめる。生まれて初めてそれらを見るように、創造されたばかりのように新鮮なそれらを見つめる。すると、私の感覚の最も皮相な知覚ではそれらは現に存在すると感じはするが、しかしそのために、決して真の現実感を覚えさせないものに還元されてしまう。
 なるほどこれら一連の作業が、世間の言う現実認識の貴重さの所以とされているようだが、注意深く見さえすればという条件を附すなら、記憶された理想世界に生きる人や事象も、同様に、きわめて細部まで、現実のそれらにも増して一層はっきりと見えてくるのである。それ自体が目に映ってくるように、つまり、眺めたり観察したりしないでも、目に入ってくるように見えてくるのである。しかも私の理想の形で。私はこの第二次的な現実に対して、かくも生きいきとした、はっきりとした外形に一つの魂を入れる価値のある作品的な現実に対して、人や事象の真の在りようを現実的なものに見せる無意識の力のようなものを、それこそ貴重で強勇な力を認めたのである。

 拙いところが愛嬌になるというのは、素人芸の域である。素人はその素人芸の至らないところを叱られてこそ存在意義があり、けっして褒められてはならない。芸術、学問、演芸、話芸、歌、芝居、スポーツ、ギャンブル……当今、そのすべてにおいて奇異な逆行現象を生じている。玄人を忌み、素人を愛嬌ありとして愛でる―それだけなら、ある種のスカトロジー(糞嗜好)として気味悪がっていればすむが、才能の有無まで逆行させようとしているについては、由々しきこととして見逃すわけにはいかない。
 多数派である純粋な素人は素人に安堵し、情愛すら感じるものだ。少数派の雲の上の人には嫉妬こそすれ、愛を捧げる気持ちにはならない。玄人あるいは玄人を目指す素人は、少数派である玄人に憧れ、有象無象の素人を忌む。堪能すべき才能がないからである。
 しかるに当今の逆転現象は、その才なき輩を才ありとして褒め讃えるものである。それは圧倒的多数の純粋素人を安堵させ、生き甲斐を感じさせ、自らを玄人とさえ錯覚させるためだ。なぜか? 玄人として愛で上げられた素人が商業市場で活躍するようになると、その愚にもつかない作物を彼らに安堵する圧倒的多数のための商品として売りさばくことができ、商品を生み出す後継素人にも事欠かないからである。
 それゆえ、携帯低能小説や幼児倫理少子化小説が、テレビお抱えはいはい学者や成り上がり芸能人保守政治家が、一芸不所持関西しゃべくり芸人や親の七光り木偶(でく)タレントが、無メロディー叫び上げあるいは囁き歌手やブルース知らず黒人嫌いのラップ歌手が、お笑いあるいは歌手上がり大根俳優や小金持ち無目的権威主義監督が、内野安打製造打率至高主義打者や偏差値50甲子園組が、手なりデジタル・リーチ即降り臆病雀士や血統至上本命ハズレ馬券予想師が、幅を利かせているのである。
 彼らの手役は鬼をもひしぐ創造力ではなく、大衆を震え上がらせる表面的な専門周辺知識である。しかしそれはあくまでも下手の横好きの素人芸であって、断じて玄人芸ではない。大衆社会爛熟のもと、彼ら一派の機嫌を損じないように、下手の横好きをプロと呼んであげるようになった。才能の冠まで付けて。
 すべてマテリアリストの金ほしさのゆえに、かくなる現象が流行としてもたらされたのであるが、金に苦労のない、しかも金と流行に根本的に魅かれない、永遠の時空を睨む玄人志向の才人が商権を握らないかぎり(金を好まない商人が存在すべくもないので、私の仮定は言語矛盾であるけれども、強いて先例をたどればパトロン芸術のみが唯一のものである)、能ある玄人のためのルネサンスは訪れない。訪れるとするなら、それは何らかのディザスターによって世界的に金融共同体が破綻するときである。


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     ・・・・・・・・・・
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