たぶん70歳は越えているであろう白髪の男性が、電車の中で新聞を食い入るようにして読んでいた。彼が生涯かけて作り上げた習慣のうち最たるものが新聞を読むことであったかと、私は荒涼たる思いに沈んだ。
 若かったころ、テレビを観たり、本を読んだり、映画を観たり、漫画を読んだりといった習慣は年をとるにつれて変容していき、他のそれに置き換えられるものと思っていた。まったく変わらなかった。一つの付加も削減もなかった。いまなお私はテレビや映画を観つづけ、漫画や本を読みつづけている。頭上にはもうほとんど霜が降りているのに―死を宣告されるその日まで、いや、宣告されてもなお、私はこの習慣にまみれて生きるのだろうか。恐らくそうだろう。
 満身その思いに充たされながら、私は車中の老人を見つめていた。そのとき私は、手に『静かなるドン・39』を携えていた。淋しかった。

 ものを書いていて鉛筆の芯をあまり折らなくなった。老いたのだろう。そんな思いを抱いていたある日、勤続二十年の表彰を受けた。人は老いると何かで表彰されるものだと思った。賞状を手渡した人は、私の敬愛する早稲田予備校の理事長である。二十年前、風来坊の私に社会的地位を保証してくれた人物であり、爾来、私の文学の支持者でもある。喜びはひとしおであった。
 賞状というものをいただくのは小学校六年生以来である。〈雨上がりの土方〉という絵によるマグレの金賞だ。老いてのちの幼児回帰。幼年期、老年期、人はいずれの時期も温かい目で見守られるのが世の摂理のようだ。不思議なことに、還暦が近づいて、年々生徒の支持も高まってきた。とはいえ、ほとんどの老人が疎んじられる現今の切り捨て文化の中で、若者ばかりでなく、諸方から敬老の精神を発揮してもらえる私は幸運児であると言えるだろう。
 この五月、私は五十九歳になる。根拠もなく二十六で死ぬと決めていた蒙昧の時代から予定の倍以上を生きた。人に守られ、事に恵まれ、夢のような幸運の三十三年間であった。しかし、私はそれに先行する不運の二十六年間を書くためにその三十三年を生きた。これからの年月も生きつづける。幸運の付け足りを彫琢できる日がくるかどうかは心もとない。おそらく書かないだろう。

 私は現実の人や事象を、現実に囲繞された人や事象として見ない。現実に目を閉じ、永劫不変の観念境に飛翔しようとする。私の視野には、記憶された理想世界だけがある。もし私が現実のために性格を変えてしまったとしたら、そういう私はもう私ではない。私はどこまでも理想を考える。私は現実の相をもって観念上の理想を喚び起こす媒介とする。
 私の現実認識があまりにみすぼらしいのを気の毒がり、もう少しうわべを整えるよう諷する者があるが、私は耳にもかけない。だれしも現実が見えないことは不幸だと思うだろうが、私は理想にこだわることによって不幸という感情を味わった経験がない。むしろ反対に、この世がパラダイスにでもなったように思われ、理想とただ二人で生きながら彩り鮮やかな極彩色の世界に住んでいるような心地がする。
 それというのも、現実を考慮しなくなると、それに拘泥していたときに見えなかったいろいろのものが見えてくるからだ。人の心の美しさもしみじみと見えてきたのは、理想を思うようになってからだ。現実認識に齷齪していたときにこれほどまでに幸福感を得られなかったのはなぜだろうと不思議に思われる。
 人は記憶の中の理想世界を失わないかぎり、傍らに現実に存在しない人を夢に見ることができる。それどころか、現実の中で生きている現実の人まで夢のような理想の中に見ることができる。現実にそばにいたとき(あるいはいるとき)とはまったくちがった像を作りあげ、いよいよ鮮やかにその姿を見ることができる。醜を美に回帰させることができる。
 すなわち、人や事象を芸術作品として描けば、それらは現実に存在しない作中物と同様なものと看做しつづけることができるが、逆に私のほうから現実に生きているものに働きかければ、それが何か疑わしい捉えどころのないものと考えざるを得なくなり、そのためにかえってそれらが何か超現実的なものとなる。私はその超現実感を享受し、また同時に、いったいなぜいまそれらが私にそう見えるのかを理解しようとする。私は注意深くそれを見つめる。生まれて初めてそれらを見るように、創造されたばかりのように新鮮なそれらを見つめる。すると、私の感覚の最も皮相な知覚ではそれらは現に存在すると感じはするが、しかしそのために、決して真の現実感を覚えさせないものに還元されてしまう。
 なるほどこれら一連の作業が、世間の言う現実認識の貴重さの所以とされているようだが、注意深く見さえすればという条件を附すなら、記憶された理想世界に生きる人や事象も、同様に、きわめて細部まで、現実のそれらにも増して一層はっきりと見えてくるのである。それ自体が目に映ってくるように、つまり、眺めたり観察したりしないでも、目に入ってくるように見えてくるのである。しかも私の理想の形で。私はこの第二次的な現実に対して、かくも生きいきとした、はっきりとした外形に一つの魂を入れる価値のある作品的な現実に対して、人や事象の真の在りようを現実的なものに見せる無意識の力のようなものを、それこそ貴重で強勇な力を認めたのである。


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