私はあの時代、学生運動家の友たちに対して冷淡だった。1970年代、私をせっせと学習会に勧誘する友は三人ほどいた。私には彼らが惨めな人びとに映った。彼らは私が『ミンセイ』や『カクマル』や『シャセイドウ』や『ブント』の動きに関心を持ち、その秘密を知りたがっているにちがいないと確信している様子で話をしていた。ところが、私はちっともそんなことに関心はなく、彼らの薄汚れた首筋や長髪を眺めながら、なぜこの男たちはこんなことをやったり、人に話したりするのだろうと、内心怪しんでいたにすぎない。
 彼らが惨めに思えたのは、何よりもまず、その頭の中に渦巻いている明らかな思想的惑乱のせいだった。彼らの言葉は脈絡がなく、意味不明だった。彼らはどうやらその運動のためには一命を投げ出す英雄を気取っているようだったが、そのくせ自分の運動の本質についても、それが成功したあかつきについても、はっきりしたイメージは持っていないようだった。彼らは自分でも自分のやっていることの意味を把握できなかったのである。
 私はいま、あのころの冷淡さを悔いている。私は意味を探って怪しむことをせずに、ただうなずくべきだった。人の行為に意味が付与されるには、どうにか意味をこじつけてくれる長い歴史的な分析を待たなければならない。人は意味不明の思想的惑乱の現瞬にしか生きられない。いま私がペンを持って、人びとと無差別に交信しようとしている惑乱ともいうべき行動は、まぎれもなくあのころの彼らのそれである。一つだけ私が彼らとちがう点といえば、思想と論理と未来世界への希望を共有して鼓舞し合う仲間がいないことだけである。

 三年前に行なわれた法学部同窓会の二次会で、旧友という言葉を口に出して私の肩を抱いたある政治家に対して、私は心の中で『バカやろう!』と叫んでいた。社会階層的に《偉く》なった彼は、私のような徽章のない社会階層の人間に対しては、ひたすら黙殺で臨めばよかったのである。
「旧友、旧友、なつかしいなあ。何か本を書いてるんだって? きみが頭の回転のいい優れものだということは、学生のころから注目してたよ」
 私が我慢し切れなかったのは、彼が私の肩を馴れ馴れしく抱いたことではなく、旧友という歯の浮くような一語の中に、人格的におおらかなところを見せて、私の階層まで自分を卑下してみせていると感じたからだった。つまり彼は私を『負け犬』と思っているのだった。彼は人間としての階層的にこの上なく汚らわしい恥ずべき職務を遂行しているくせに、人としても何か偉い位階に昇ったかのように自惚れているばかりでなく、私の旧友だと名乗ることによって、自分の社会階層のおこぼれに預からせてやる寛大さを押しつけるとまでは言わないまでも、その寛大さを誇りとしていないことを見せつけようとしているのを直感したからだった。私が相手でなければその政治家らしい『取込み兵法』は成功したかもしれない。しかし私のような、すべての社会階層というものに価値を置いていない人間にとって、それどころか逆に、何らかの特定の社会階層で自分を格付けする徒輩を『負け犬』と規定している私のような人間にとって、それは下衆の、見え透いた、バカやろうな心の動きだった。

 ジャーナリストたちが、学者たちが、ときには芸術家たちまでが、政治に対して抗議の言説や文書を突きつけるのを見る。内外の世界が混沌としているいま、机上のそんな言葉がその混沌を沈静する何らかの効果がありでもするかのように。芸術家や学者が、たとえきわめて優れた有名な人であるにせよ、政治のことに関して何か言うべきことを持ってでもいるかのように。それはおそらく最悪のことだ。政治の現場に立って毎日命を賭けている人なら、みな憤激し、そのときどきに怒り憎む十分な権利を持てばよい。だが机の人の場合は、政治を書斎に持ちこみ、人びとの間に憎悪を培い、それを激しく掻き立てるような愚行をやめるべきだ。悪いものをいっそう悪くし、醜いことや悲しむべきことを増大させるのが、彼らの任務であるはずがない。それらすべての発言は、思考の欠陥に、心の安易さに基づいている。
 思慮の浅いジャーナリストや学者や芸術家にとっては、人間の精神界に存在しない価値の薄い抽象的なもののほうが、精神界に存在して価値の濃いものよりも、言葉で表現するのに容易であり、表現の責任も伴わないかもしれないが、人間の精神に対して謙虚で良心的なジャーナリストや学者や芸術家にとっては、まさにその反対である。すなわち、あらゆる人事・精神現象の物理的存在は証明することができないし、言葉に定着して真実めかせることが困難だけれども、謙虚で良心的な彼らがそれを厳とした存在物として取り扱うことで、生き生きとした普遍的な精神の衣装に織り上げることができる。そういう衣装ほど言葉で織り上げにくいものはないが、また、そういう衣装ほど言葉の繊維を密にして人びとに精神の暖をとらせる必要のあるものもない。それは人間文化の超国民的な衣装だからだ。内外のポリティックスに対する喜びより、人間に対する喜びを慈しむ衣装だからだ。机から去らないことを机の人びとが決意したとき、彼らは世界に属したのである。
 自分の内奥の生命力を信じない者や、その生命力を欠いている者は、金や権力といった、過大評価された、千倍にも見積もられた代用物で補充しなければならない。自己の内面的な法則や心を自主的に身にまとう人びとのあいだでは、世界はもっと豊かに高く栄える。そういう人びとの世界では、政治家を煩わせるような諸問題は(そのほとんどが他人の持ち物を欲しがることからもたらされる問題だが)もはや問題ではない。彼らが心を用いるのはもっとほかのことである。草の茎のような深く絶妙な自己成長、すなわち金や権力を貪るのとはちがった利己主義である。そのために多くの人が悩まし合い、殺し合う金や権力といったものは、彼らにとってほとんど価値がない。彼らはたった一つのものだけを尊重する。彼らに生きよと命じ、彼らの成長を助ける、自分自身の中の神秘的な力である。この力は、金や権力によっては獲得されることも、高められることも、深められることもない。


Calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

Archive

Recommend

あれあ寂たえ―夜の神話
あれあ寂たえ―夜の神話 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
 筆者18歳から書き溜めた随想集の集大成。
 本の題名である「Alea Jacta est」は、ラテン語を日本語にモジったもので、「ああ、よくここまで生きてきたものだ」の意味。
  エピグラフは、旧約聖書の「伝道の書」。
   『すべてのことは人をうみ疲れさせる
   人はこれを言いつくすことができない』

1  笑い疲れているが、あしたも笑うであろうということ。
     ・・・・・・・・・・
  山師にまごうかたなき挙措を、あしたも耳朶を戦かせながら繰り返すであろうということ。
  きょうと同じように、あしたもこの世の摂理に殺されつづけるであろうということ

Recommend

風と喧噪
風と喧噪 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,800円
『もっとさびしい唄が聴きたい。 聞こえる、聞こえる 窓のむこう 耳を濡らして、夢醒めた夜に。』p.206抜粋
「牛巻坂」の続編とも言える作品。主人公・純一はどうして死を選んだのか。

Recommend

牛巻坂
牛巻坂 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格:1,890円 国内配送料無料
愛―このありふれた歓びと苦脳に翻弄される少年の魂。繊細かつ豊饒な筆致で描き出す凛烈な抒情。

Recommend

鯉人―淀屋辰五郎想い書
鯉人―淀屋辰五郎想い書 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格(税込): 3,150円
元禄一代男淀屋辰五郎―その凄絶なる滅び。天下の台所大坂に君臨した御用商人「淀鯉」の盛衰絵巻を異才川田拓矢が鮮烈に描き切った入神の傑作。

Recommend

全き詩集
全き詩集 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,456円 
川田拓矢の詩は滑らない。
世界の中心に向かって最短距離を疾走する彼の言葉達は無謀なヘッドスライディングを必要としないのである。
―竹内銃一郎(劇作家)―

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM