老壮期にいたって後、私は嘘をつくという欠点を自分に見出したことがない。私はあまりにも開けっぴろげで、正直すぎるくらいである。
が、青年時代の初期、私はしばしばこの上なく破れかぶれの嘘を衝動的についた。簡単に見破られる嘘である。野坂昭如に将来を嘱望するような褒め言葉をいただいたとか(その実、体よく原稿を返却され追い払われただけである)、高校時代は秀才だったとか(例外的な数度を除いて首席からはほど遠かった)、ユリイカの編集長から激賞されたとか(その実、投稿詩が一度掲載されただけである)、理由もないのに女が出て行ったとか(理由は明らかに私の過度の暴力であった)。
 まったく! 実際とはまるきり別の人間に自分を見せたい虚栄の欲望のせいで、尻尾をつかまれずに嘘をつきたいという衝動に振り回されていたのである。たぶん、実生活では実現不可能な希望に価値を置くあまり、その希望を自分の正体を恥じる気持ちに結びつけたことが、その奇妙な傾向の主な原因だったにちがいない。なんという恥知らず!
 あの日々に対する後悔と反省の気持ちが、現在の私を過度な謙虚の気持ちに沈淪させる。それがそのまま作品に結晶する。正直に書く。それがいよいよ、信じられないほどの光輝を放ち、人々に疑いを抱かせる。私の作品の筋立てや人物の絡め方には嘘があるが、書きこまれている一つ一つの事実には(つまり私の正体には)一片の嘘もないのに。しかし、彼らのその疑惑のおかげで、私は自分の正体を知ることができた。
 正直であろうとするとき、私の人格や思考や経てきた事実が、私のついた嘘と比べ物にならないくらい、あまりにも破天荒なものであったことを、作品をものしながらあらためて知ったということである。私にとって、作品を書く以外に自らの破天荒な正体を知る術があったのだろうか? 幸いに、人格や思考や経てきた事実が破天荒であったがゆえに、私は作品をものすことによって自らの正体を芸術家であると認識できたのである。そうである以上、作品を書くほかに、私らしい生き方はなかったのではないだろうか。

眼高手低(がんこうしゅてい)の恥を、評論家は権威の大風呂敷で包む。

 私の作品には熱狂的な支持者がいる半面、歯牙にもかけない人たちがその数百数千倍いる。その理由は私の《無学》である。つまり、私の小説は《子供の読み物》という定評が定まっている。したがって、知識の吸収欲にあふれる学生や巷間の知性人は、ページを開くや否や一読に値しないものとして切り捨てる。大学生の私のファンからも、職場関係者からも、また友人からも同様の報告はしばしば入る。
「仲間に勧めてみましたが、知性がないので、ダメだということでした」
「簡単すぎてね」
「俺は好きだし、鬼的な文章力だとは思うけど、論理がデタラメだからなあ」
 著者である私には、正直なところ、何がダメなのかわからないのである。元来、鑑賞者は芸術に対して知性や複雑さや論理を求めるものではないし、作品の価値はひたすらその美的な性質と人間的な内容で決定する。また、多読家の私が自分の作品を検討してみると、すぐれた作家に比べて、あまりに知性や複雑さや論理に満ちていてイヤになる。数学の教師で職歴を開始した私の本来の姿が彷彿として、泣けてくる。
 私は人が思うよりも、また外見の冴え具合に反して、教養がなく、浅学であり、頭蓋に詰まっている知識は青年時代、つまり十四五歳から二十四五歳のころに身につけたものに留まっている。ここ一世代ほどの文化現象に関しては、何の概念も持ち合わせていない。その種の会話になると、問われないかぎり礼儀正しく口を噤(つぐ)んだり、問われれば直観に頼って当たり障りのない言葉を多少語ったりすることはできるが、世上に何が起こっているかは何もわかっていない。おそらく私は、最近ではその見本がきわめて残り少なくなった部類の浅学者であるにも関わらず、私のする話は案外に論理的でわかりやすく、そのわかりやすさのゆえに、事象に対する私の単純な理解をさらけ出し、能天気な調子とエセ哲学者ぶりとを示している。しかし、これぞ大衆を惹きつける素であるはずだ。
 ならば、知性人以外の人びとが私の文学を支持してくれるかというと、これまた歯牙にもかけられない。彼らはやはり、知性人がよしとするもの、あるいはメディアがよしとするものを手に取り、それをよしとするのである。曰く、
「川田の作品は大衆性がなく、難解だ」
 これではまるでナゾナゾである。知性には欠けるし、簡単だし、論理が破綻しているし、大衆性がないし、しかも難解なのである。まったくちがった価値観を表明するそのような見解を総合して思索を発動させることは、もはや私には不可能である。それは私に真の教養がないせいか? おそらくそうであるにちがいない。文章に斧鉞を加えすぎるせいか? おそらくそうだろう。頭が悪いせいか? おそらくそうだろう。大衆に媚びないせいか? おそらくそうにちがいない。論理的すぎるせいか? まぎれもなくそうであるにちがいない。あるいは、こうなったらハッキリと、
「あんたがいつまでもぐずぐずと無名でいるからだよ。肩書きのない弱者であることが決定されたあんたには、せいぜい好きなことを言ってやるのさ」
と教えてくれたら、どれほど心が安らぐことか。いずれにせよ、私は(かくも真の教養に欠けているがゆえに、考える力のないゆえに)現代のあらゆる《独創》を無二の敵と見なし、そんなものは下品な人間のトリックに他ならないと確信しているのである。


Calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>

Archive

Recommend

あれあ寂たえ―夜の神話
あれあ寂たえ―夜の神話 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
 筆者18歳から書き溜めた随想集の集大成。
 本の題名である「Alea Jacta est」は、ラテン語を日本語にモジったもので、「ああ、よくここまで生きてきたものだ」の意味。
  エピグラフは、旧約聖書の「伝道の書」。
   『すべてのことは人をうみ疲れさせる
   人はこれを言いつくすことができない』

1  笑い疲れているが、あしたも笑うであろうということ。
     ・・・・・・・・・・
  山師にまごうかたなき挙措を、あしたも耳朶を戦かせながら繰り返すであろうということ。
  きょうと同じように、あしたもこの世の摂理に殺されつづけるであろうということ

Recommend

風と喧噪
風と喧噪 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,800円
『もっとさびしい唄が聴きたい。 聞こえる、聞こえる 窓のむこう 耳を濡らして、夢醒めた夜に。』p.206抜粋
「牛巻坂」の続編とも言える作品。主人公・純一はどうして死を選んだのか。

Recommend

牛巻坂
牛巻坂 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格:1,890円 国内配送料無料
愛―このありふれた歓びと苦脳に翻弄される少年の魂。繊細かつ豊饒な筆致で描き出す凛烈な抒情。

Recommend

鯉人―淀屋辰五郎想い書
鯉人―淀屋辰五郎想い書 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
価格(税込): 3,150円
元禄一代男淀屋辰五郎―その凄絶なる滅び。天下の台所大坂に君臨した御用商人「淀鯉」の盛衰絵巻を異才川田拓矢が鮮烈に描き切った入神の傑作。

Recommend

全き詩集
全き詩集 (JUGEMレビュー »)
川田 拓矢
本体価格:1,456円 
川田拓矢の詩は滑らない。
世界の中心に向かって最短距離を疾走する彼の言葉達は無謀なヘッドスライディングを必要としないのである。
―竹内銃一郎(劇作家)―

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM