ついに淀屋辰五郎を書き上げた。題して『鯉人』。三年半かかった。推敲に半年。資料は日本史の教科書レベルのものしかなかったので(大坂の富商淀屋辰五郎は華美禁止令に逆らって闕所追放となった――この一行だけ! しかし、吝嗇と臆病で名高い大坂町人が幕府に逆らったというこの一行が私を創作へ駆り立てた。書きたいと思ったのは四十年前である)、辰五郎の生きた元禄時代そのものを諸書で猛勉したあと、時代背景から人間関係まで99%想像で書いた。『夜を渉る』以来の暴挙である。あの作品も想像で書いたことを信じてもらえなかったので、今回もおそらくそうだろう。私はまるで見てきたように嘘が書ける天才なのである(未来には興味がないのでヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演戯』のようなSF小説は書けない)。じつは、プロの選考委員にも身辺小説と誤解されたこれまでの作品もすべて(『五百野』ですら)、90%以上想像で書いている。私はよほどの嘘つきか、空想家なのだろう。だから今回の作品も、リアル性がないなどと批判を受けなくてすみそうだ。よいものに仕上がった。普遍的なものを書いた。そのために機(はた)を織る鶴のように極限までからだを酷使したので、しばらく予備校で教えたり、競馬をしたりしながら、徹底した休息を取らなければいけない。想像の翼を作品という布地に織り上げる嘘を華麗に仕上げるには、命を削るほどの体力が必要なのである。英語の勉強と競馬は、私にとって最も効率のよい休息である。そこには結果を期待するリアル性しかないので、そのあざやかな対照で、かえって現実空間に安らぐことができるのだ。音楽や映画や読書は、いよいよ疲れが増すものである。だから、毎回、作品を仕上げたあとは手をつけないようにしている。

 私が心していることは、立身のなった学者や、作家たちの仲間に入らないようにすることだ。立身遂げた昔の友人たちとすっかり遠く離れてしまっているのは幸いだが、ゆめゆめ油断せずにその種のサークルの人々との距離を、友人のそれよりもさらにいっそう大きくすることだ。

 文学においても、音楽においても、古今の大家の作品はほとんど顧みられないで、末流作者の痴呆的作品のほうがかえって一般の思考に投じ、現人神のごとく隆盛を極めるにいたったのはどういうわけだろうか。なぜ現代の日本人は、真の天才(この言葉を青臭い表現と思う人間は真の天才に反感を抱いている人間か、真の天才の存在を疑う人間か、真の天才を判断できない人間である)の芸術よりも、かくも馬鹿馬鹿しいあくどい二流作品のほうを歓迎するのだろうか。私にはわからない。一般という意味も含めて、若いころから考えつづけ、中年に至って考えあぐね、老境の日々にとことん疲労してしまった。
 ただ、その懐疑という名の疲労は、つねに、私の溌剌とした創作意欲に結びついてきたし、創作以外の生活態度までも決定した。一般への饗応は粗悪で廉価なものでなくてはならないという、ある種社会学的結論の真偽がどうであれ、自分だけは質の高い高価なものを創ろうと、疲労の床で覚悟できたからである。疲労するほどの悩みに沈潜しないかぎり、新しい一日に再生する精力は得られないというのが、疲労しやすい私が人生の途上で醗酵させた哲理だった。そしてその精力から生まれた作品を、垂涎の饗応物として享受する人間は必ずこの世のどこかに存在しており、そしてその享受が一般化する時は必ずめぐってくるというのが、私の生きてゆく灯火なのである。


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